夜の街角は賑やかな喧噪。
九州文化センターの前を抜ける3車線の大通りは、たくさんのクルマが色とりどりの光の軌跡を残して流れていく。背の高いビルにはキラキラとネオンがまたたき、人通りの絶えない舗道に、カクテルライトを写している。
それはこの九州文化センターで、今秋から催される小説講座の入校式が終わった、帰り道での出来事だった。
わたしはこの夜のことは、一生忘れないだろう。
式からの帰り道。わたしは妙にワクワクしていた。
講師の方からいろんなお話しを聞いて、自分の夢が広がり、なんだかそれが叶えられるようで、すごくハイな気分。
わたしは地下街の本屋に立ち寄って、外国文学の書架を見上げた。
こんな気分のときは、新しい本を買いたくなる。
エドモンド・デュラク挿し絵の『ウンディーネ』を見つけた。
わたしこの挿し絵がとっても好きなんだ。何度も立ち読みしたものの、値段が高くて手が出なかった。でも、今日こそ思い切って買っちゃお。そう思いながら本に手を伸ばす。ちょっと高い所にある大きな本だったので、なかなか取りづらい。そのとき別の大きな手が、わたしの取ろうとしている本を引っ張り出した。
わたしは思わず腕を引っ込めて相手を見る。向こうもわたしを見ていた。そしてニコリと微笑んだ。
「久し振り。弥生さん」
「…」
一瞬、時が止まった。
街のどよめきも、流れるBGMも、みんなわたしの心から消え去って、彼の表情だけが、コマ送りのビデオみたいに鮮やかに浮かび上がる。それは次第にリワインドしていき、半年も前の、高校生だった頃の表情とオーバーラップしていった。
「…川島君!」
わたしはどんな表情を作ればいいのかわからず、とりあえずぎこちなく微笑む。彼も微笑み返す。それはとってもあったかい笑顔。
そう。
この人はいつだってそうだった。
一緒に机を並べて勉強していた、あの教室。
あの頃から、川島祐二君は優しく笑う。
そして… わたしは一年半、いつも、その笑顔だけを見てきた。
思わず振り返るようなハンサムじゃないし、勉強やスポーツが抜群にできるってわけでもないけど、川島君はなぜか、女の子たちから好かれていた。
誰よりも気持ちがよくて、誰よりも暖かだったこの微笑みに、女の子たちは惹かれていた。
そして、それが17歳だったわたしの心を、いっそうせつなく乱していた。
「か… 川島君。どうしたの?」
「本屋に寄ってみたら、弥生さんが本棚と悪戦苦闘していたから、助けの手を差し伸べてみたんだよ」
「あ、ありがとう」
消え入りそうな声。わたし、脚が震えてる。
「弥生さんは西蘭女子大学に進学したんだってね」
「ええ… 川島君は…」
「ぼくは、市内のビジュアルアーツ系の専門学校だよ」
…知ってる。
友達から聞いたんだ。
川島君は3年の途中で急に進路を変更して、写真の専門学校に進んだ、って。
川島君の成績なら、地方の国立大くらい受かりそうだったし、最初の志望校はそうだったから、先生や親からもいろいろ諭されたらしいけど、川島君は自分の決めた進路を変えなかった、という友達の話しだった。
「弥生さんは、やっぱり国文科?」
「ええ」
「そうか。弥生さんは高校の頃から本が好きだったもんな。だから小説講座か」
「えっ? どうして知ってるの?」
「九州文化センターでは、ぼくも絵画講座に入ってるんだよ。今日、入校式の時に、小説講座が新しく開かれてるのを知って、中途だけど、ぼくも受講申し込みしたんだ。次の講座から参加するよ」
「ええっ。川島君も受けるの?!」
人目もはばからず、思わず大きな声でわたしが聞き返したものだから、川島君はちょっとびっくりしたみたいだけど、笑いながら答えた。
「ぼくなんか小説って柄じゃないけどね。でも興味あったから受講してみたかったんだ。だけど、今日の講座が受けられなくて残念だったな。よかったらどんな感じだったか聞かせてくれないか? お茶でも飲みながら」
「え?」
「この先に『紅茶貴族』って紅茶のおいしい店があるんだ。よかったらそこ行かない?」
「え、ええ…」
わたしは戸惑った。好きな人に誘われているのに、なぜ?
高校のときは、彼とはロクに話しもしていない。わたしの一方的な「バスストップ・ラブ」だった。
それが急にこうしてふたりきりで、面と向かってしゃべったりしているものだから、なんだか現実感がなくて、ふわふわ宙に浮いてるみたい。それに…
わたしの脳裏をひとりの女の子の顔がかすめた。
恵美さん…
「無理には誘わないけど」
川島君はわたしが戸惑っている様子を察したように言う。
ううん…
無理とかじゃない。
わたし、怖がってるけど、イヤってわけじゃない。
わたしは黙ってうなずいた。
たいして広い喫茶店じゃないけど、『紅茶貴族』は、飾りは渋いブリティッシュ。
ボックスシートは人がいっぱいで、わたしたちはカウンターに座った。
「紅茶を入れるのを見てると、楽しいよ」
メニューを開きながら、彼が言う。
ピカピカに磨かれたメリオール。
『フォートナム&メイスン』の紅茶を、よく暖めてあるティーカップに注ぎ、タータンチェックのロングスカートをはいたウェイトレスが、席に運んでいる。
紅茶独特のほろ苦みのある渋い香りが、部屋の柱や家具調度に染みつき、重厚な雰囲気を醸している。
わたしが注文したアールグレイは、爽やかで香りがとってもよく、まるで川島君との再会を祝福してくれているような、この上ない素晴らしい味。
川島君に聞かれるまま、わたしは今日の小説講座の様子を、たどたどしく話した。
「それで弥生さんは、小説家になりたいんだ?」
川島君はカウンターに頬杖ついて、わたしの顔を見ながら訊ねる。
「え、ええ。できればなりたいけど… 川島君もなの?」
「ぼくは趣味程度かなぁ。カメラマンを目指してるから」
「カメラマン?」
「高校生の時に急にカメラに目覚めてね。それまで美術部にいたんだけど、3年になって写真部にも入ったんだ。おまけに将来の目標もカメラマンにしたもんだから、親にも先生にも反対されてね。『そんな不安定な職業はよくない』んだってさ。友達からもいろいろ言われたな。『カッコいいから頑張れ』なんて無責任に言うやつもいたけどね」
「そうだったんだ。そういえば秋の文化祭のとき、川島君の油絵と写真、両方見たわ」
「え! 見てくれたんだ」
「わたし絵とか写真とかよくわかんないけど、どっちもあったかい感じで,よかった」
大きな海の絵だったな。川島君の油絵。
浜辺で働く人を点景に入れながら、夕暮れの海を力強いタッチだけど、やさしい色調で描いていた。
写真のモチーフも同じような夕焼けの海。空と雲のグラデーションが水面に映えて、とっても綺麗だった。
川島君の心の中には、こんな大きな海が広がっているのかなぁとか想像しながら、長い時間、作品の前に立ち止まっていた、去年の秋の文化祭。
どちらの会場でも川島君とは会えなかったけど、もし鉢合わせていたら、恥ずかしくて、じっくり作品を見られなかった気がする。
「川島君は、ほんとに絵とか写真が好きなのね。それを感じられた」
「そうか? 嬉しいよ」
「それにしても、美術部と写真部をかけもちだなんて、川島君、すごい」
「絵も写真もどちらも同じ『picture』だろ。ぼくにとって本質は一緒なんだ。その表現のツールが違うってことだけの差さ。去年の文化祭の作品は、そういう意味を込めて、あえて同じモチーフで取り組んでみたんだ」
「ふうん。だからどちらも海の景色だったんだ」
「小説にしても、そうなんじゃないかな?」
「え?」
「絵も写真も、自分の世界を絵具やレンズを通して、切り取って創造するってことだろ。小説だって自分の世界を文章で創造していくってことじゃないかな? どれも自分を表現するための、手段だろ」
「え、ええ… そうね」
「やっぱり、自分の力でなにかを創造するってのは、いいもんだな。
なんていうのかな? 自分の存在が確かめられるっていうか…」
「あ…」
「なに?」
「う… ううん。なんでもない」
この人の考えてること、わたしの心とどこかで繋がってるみたい!
さりげない川島君の言葉から、わたしはそう感じた。
彼の言葉のひとつひとつが、わたしの胸の奥にびっくりするくらい自然に入ってくる。
男の人と話していて、こんなことは初めて。なんだか嬉しい。
少し照れたように頬を赤らめながら、川島君はクッキーをつまんだ。
「はは。理屈っぽいことばかり話してしまったな。ごめんな。今日は弥生さんから、小説講座のことを聞くだけだった筈なのに」
「そんなことない。川島君のいうこと、よくわかるわ」
「ほんと?」
「でも、意外だった」
わたしは自分の気持ちをかすかに匂わせるような言葉を、彼に伝えたかった。
「高校の頃は、川島君がわたしとおんなじことを考えてるなんて、思いもしなかった」
「ぼくは思ってた」
「え?」
わたしは驚いて彼を見る。
川島君はわたしの瞳を見つめる。
まっすぐで、心の奥まで見透かされてしまいそうな、視線。
「弥生さんって、しっかりしてたもんな。おとなしかったけど、自分がなにをすればいいか、わかってるような感じだった。人生に確かな目標を持っているっていうか」
「そ、そんなことない。わたしってほんとになにも知らないんだもの」
わたしが真っ赤になってあわてるのを見て、彼はクスッと笑う。
川島君って、いつも落ち着いている。
同い年の男の子ってなんだか子供っぽいんだけど、川島君は大人びてるっていうか、言動のはしばしに余裕を感じられる。
そういえば高校の頃から、この人が怒ったりあわてたりしてるとこって、見たことがないかもしれない。
いつだってどこでだって、いつも落ち着いてて冷静で、そのくせ近寄りにくいってわけじゃなく、誰にでも親しげに微笑みかけていた。行動力もあって、なにかイベントがある度に、中心になって進めたりしていた。だからクラスの男子にも女子にも人気があって、いつだってクラス委員や幹事とかに選ばれていたっけ。
「そういえば、弥生さんとこうしてゆっくり話しするのって、初めてだね」
「そうね」
「弥生さんは、男子とはあまりしゃべってなかったからなぁ」
「わたし… 男子って、苦手だったもの」
あ…
どうしてこんなことが、するっと言えるんだろ。
「はは。うちのクラスの男子、休み時間も教室で野球したりプロレスしたりさ。かなり野蛮だったから、やっぱり女子から見れば、幼稚だよな」
「そんなことないけど… わたし男兄弟とかいないし、男って人種のこと、よく分からないの」
「それはまずいな」
「え?」
「男なんて、いきなりオオカミに変身したりするから、気をつけないと」
「かっ… 川島君!」
「なんてね。女の子をそうやって脅したりするのも、悲しい男の性かもしれないな〜。そんなことで喜ぶような、男って単純なイキモノなんだよ」
「もうっ。それってただ、イジワルなだけじゃない?」
「ごめんよ」
そういって軽く舌を出す川島君を見て、わたしは微笑んだ。川島君となら、なんだかなにも構えずに話ができる。わたし、どうしてこんないい人に、今まで話しかける勇気がなかったんだろ。
「高校生だった頃に、こんな風に話せたらよかったのにね」
わたしの口から思いもかけず、そんな素直な言葉が流れ出した。なんだか彼の前で、ようやく自分らしくなれたみたい。
「高校の時は話せなかったくせに、卒業して再会したりすると、意外なくらい話せるもんだな」
「不思議ね」
わたし、ずっとこんな風に川島君と話がしたかった。
何度そうしたいと思って、手紙を書いたかしら?
その度に、机の奥にしまいこんで渡せなかった、わたしの想い。
こうして今、川島君と話しながら、わたしの心は次第にあの頃… 高校生だった頃に戻っていく。
あの頃…
わたしは紺のブレザーに赤いチェックのプリーツスカート、川島君は詰め襟の学生服だった。
2年間同じクラスで、席が隣同士になって勉強したこともあったっけ。
彼が教科書を忘れてきて、机をくっつけて教科書を見せてあげたこともあった。あとで、わたしの気持ちを知ってる友だちにからかわれたな〜。だけど川島君とは、そんなときでもほとんど話せなかった。
でもわたしは、けっして『根暗の無口な女の子』なんかじゃなかった。
それなりに友だちも多かったし、クラスの中でもワイワイ賑やかな方だったと思う。
特に仲のよかった友だちは5人。
学校帰りによく『とらや』って甘味屋や『モロゾフ』のケーキ屋なんかにみんなで寄って、いろんな話をとりとめもなくやってたな。
タレントや好きなミュージシャンの話。新しくできた喫茶店。誰かの持ってきた可愛い小物や新しく買った服。昨日見たテレビ。だけどいちばんの話題はなんてったって、『好きな人』のことだった。
「松本君がバレーボールの授業のとき、すごいスパイク決めてたわ。さっすがバレー部キャプテンね」
「広瀬君、今日も遅刻して校門で生徒手帳取られてたわよ。相変わらずドジなんだから」
「富村君、授業中とかでもいつもはるみの方見てるじゃない。絶対あなたに気があるって」
「知ってる? 有田くんが後輩の吉永さんから告白されたって!」
「うっそぉ! あの人3組の真野さんとつきあってるんじゃない?」
「それを知っててラブレター出したっていうから、その子もすごいよね」
女の子同士の情報ネットワークって、信じられないくらいに広くて、わたしも川島君の血液型とか誕生日、身長体重座高から視力、好きなタレントや、昨日食べた学食のメニューまで知ってたっけ。
だけどどんなに情報を集めたって、ほんとの川島君には少しも近づけなかった…
「なに考えてるんだい?」
川島君の声が、わたしを今の自分に引き戻した。
「うん。高校の頃のこと」
「たった半年前なのに、なんだかすごく昔のことに感じるな」
「そう、ね」
「去年の秋の体育祭。フォークダンスのこと、覚えてるかい?」
「うん。ファイヤーストーン囲んで、三年生だけで踊ったね」
「実はね。みんな自分の好きな女の子と踊りたくて、必死で順番考えていたんだ」
「へえ。男子でもそんなことするの?」
「みんなダンスなんかイヤだとか、めんどくさいとか言ってたけど、ほんとはすごく期待してたんだよ」
「そうか〜。そいうえば女子も、だれと踊るかでみんな大騒ぎしてたわ。だけど踊ってるときって、まるでバイ菌触るみたいに、相手の指先に、ちょこっとだけ手を載せてたわよね」
「でもみんな、そうやってイヤな振りしながら、相手のことしっかり意識してたんだろな」
「…」
わたしは思わず赤くなった頬を、川島君に見られたくなくて、うつむいた。
わたしもそうだったんだもの。
わたし、川島君と踊る順番が回ってきたときも、イヤそうに彼の指先をちょこんとつまんで、自分の指に全部の神経を集めてた。そしたら川島君が『そんなんじゃ踊れないよ』と言って、わたしの手をギュッと握ったんだ。わたし、びっくりしちゃって息が止まりそうだった。あれはわたしにとって『大事件』だったのよ、川島君…
だけど川島君も、誰かと踊れるのを期待してたのかな?
そういえば高校の頃、どんなに女の子ネットワークを駆使しても、川島君が好きだった人のことはわからなかった。
あんなに明るくてつきあいがよくても、川島君は自分のことはあまり進んで話さなかったみたいで、けっこう『謎』が多かった。
だから、ちょっでも川島君が親しく話している女の子がいたら、すぐに、『川島君はその子のことを好きなんだ』って,噂が立ってたな。
わたしが知っているだけでも、2人の女の子が川島君に告白していたし、『他の学校の女子から告白された』って話も聞いたことがあって、なんだか川島君のまわりには、いつでも女の子の影がまとわりついてて、わたしはやきもきしてたけど、川島君はその誰ともつきあわなかったみたいで、みんなで『不思議ね〜』と言いあっていた。
あれは…
共通一次試験が終わった翌日の、雪の降る放課後のことだった。
川島君は下駄箱の所に立っていた。
わたしはちょうど下校する所で、下駄箱に向かっていたが、彼を見つけて足が止まり、話しかける口実を一生懸命考えていたんだ。
そんなわたしの横を、ひとりの下級生が走り抜けていった。
彼女は川島君の隣にかけ寄ると、はあはあと白い息をはずませて、
『待ちました?』
と親しげに言った。
彼女の川島君を見つめる瞳…
『恋してる』って直感した。
『えみちゃん。ぼくも今来たばかりだよ』
と川島君は優しく名前を呼び、並んで下校するふたりは、雪景色のなかに白く消えていった。
わたしは降りしきる雪に凍りついたように、その場に立ちすくんでいるだけだった。
川島君が初恋ってわけじゃなかったけど、こんなに好きになったのは彼がはじめてだった。
その彼が下級生と仲良さげに下校して、ふつうなら悔しかったり悲しかったりするはずだけど、わたしはその一瞬、なんだか解放された様な心地よさを感じてしまったんだ。
遠くから見つめるだけの寂しい恋に、終止符が打てたから?
だけど、家に帰るなりはるみに電話して、ご飯も食べずに泣きながら、川島君のことばかりずっと話した。
川島君といっしょに下校した下級生は、「蘭 恵美」って子だとわかった。
『あららぎ えみ… さん』
そう心の中で彼女の名前を呼ぶと、イヤでも、あのときの川島君の優しそうな表情が、目に浮かんでしまう。
蘭さんは、ほっそりとした色白の童顔で、栗色の長く柔らかな猫っ毛がとっても可愛い、甘ったるい雰囲気の女の子だった。彼女は川島君が入っている写真部の後輩で、最近急に仲良くなってきていたらしい。
「あの下級生、クラブでも川島君にそうとう色目使ってたんだって」
「川島君、美術部の子に告白して、フラれたから写真部に移ったって話よ」
「彼女をモデルにして、写真撮ったりしてるらしいし」
「だけど川島君って、ああ見えて結構女ったらしかもね〜。彼女以外にもつきあってた人、何人もいたらしいじゃない」
「蘭さんって、男子の前じゃ、話し方がまったく違うって評判じゃない」
「クラスの女子からはあまり好かれてないんだって。でも、美味しい所をちゃっかりさらっていくのは、やっぱりああいうフェロモン系かぁ」
川島君のことはもう諦めたはずなのに…
そんな、嘘かほんとかわからない噂話を聞かされる度に、気持ちはざわついた。
幸いなことに、学校はそれからすぐに自宅学習期間に入って、登校しなくていいようになり、川島君とも、その蘭恵美さんとも、顔を合わせることもなく、そのまま卒業式を迎え、川島君への恋は「ほろ苦くても、いい思い出」になっていったはず… だっだ。
「どうしたんだい? 弥生さん、なんだか元気なくなったな」
川島君は、うつむいて黙りこくっていたわたしを訝しがる。
いけない。
わ、わたしったら、昔の辛かった思い出に引きずられちゃってる。
今この瞬間は、川島君が隣にいてくれてるってのに。
「ちょっと… 卒業式のこと。思い出しちゃって」
そう言って、わたしは取り繕った。
「そういえばあの日は、式のあとでみんなでサインの交換をしたな」
「わたしも、川島君にサインしてもらった」
うつむいたまま、わたしは応えた。
あのときだって、川島君に頼むのに、大変な勇気がいったんだから。
川島君はみんなに囲まれててなかなか近寄れなくて、わたしは遠くから見ているだけだった。
『失恋しちゃったけど、最後のけじめくらいつけたい』
そう思いながらも、もうすぐ下校しなきゃならない。
焦っているうちに、川島君がこちらにやってきた。最後のチャンスだった。
「これ…」
心臓が激しく高鳴って息が詰まり、わたしはそれ以上言うことができず、黙ってサイン帳を差し出しただけだった。
そんなわたしの気も知らず,川島君は軽く笑って、
『じゃあ、ぼくのにもサインして』
と、自分のノートをわたしに預けてくれた。
最後に川島君は、
『元気でね』
って言って、左手を差し出した。
『左手の握手は永遠の別れ』
そんな言葉をわたしは思い出した。
『もう、会えないんだ』
そう思いながら、わたしは川島君の手を握り返した。
川島君はギュッと、ダンスのとき以上に力を込めた。
力強くて痛い… 高校時代の最後のい・た・み・・
「あの時、篠倉さんにサインしてもらった松田は、帰りがけに彼女に交際申し込んだんだって」
「うん、雅美から聞いた。卒業式の後に電話があって、困ってた」
「あのふたり、今つき合ってるってさ」
「なんだか、信じられないけど… 雅美が好きだったのは、別のクラスの男子だったのに」
夏に雅美に会ったとき、彼女ずいぶん綺麗になっていた。
『ラブラブなの』と言って、松田君のことを嬉しそうに話してたっけ。
もうキスもして、ホテルにも何度も行ったなんて話してくれた。
わたしはなんだか、そのときの彼女が、自分とは違う人種の女の子に進化したように感じた。
そのときの雅美からは、もう高校の時に想っていた人の話は、ひとことも聞けなかった。
『人の気持ちって変わっていくんだな〜』
と、わたしは彼女の話を聞きながら、漠然と考えていた。
わたしだって、川島君への想いは、とっくに甘い記憶になってると思っていた。
思っていたはずなのに、こうして再会すると、やっぱり心がざわめいてしまう。
わたしの気持ちは変わってない。
やっぱり川島君のことが、今でも好きなんだ…
「もう出ようか」
川島君の言葉にハッと気がついて時計を見ると、短針はもう10時を回っている。
「ええっ! もうこんな時間?」
楽しい時間って、どうしてかけ足で過ぎちゃうんだろ。わたしは立ち上がってバッグから財布を取り出す。川島君はサッとレシートを手にとると、わたしにかまわずレジをすませた。
「今日はぼくが誘ったんだから、おごるよ」
「そんなの悪いわ。わたし払う」
彼は硬貨を差し出すわたしの手を押し戻しながら言う。
「じゃあ、次はおごってもらうよ」
「そ、そう? ごちそうさま…」
わたしはドキドキしてうまく言えない。
次?
わたしたちに次はあるの?
未来はあるの?
それは今日と同じようなひとときを、また過ごせるってことなの?
川島君は、そうしてもいいって思ってるの?
ほとんどの店がシャッターを下ろしている地下街は、人影もまばらで、わたしのパンプスと川島君の靴の音だけが、“カツン”“カツン”と冷たく響きわたる。
わたしは、卒業するまでどうしても伝えられなかった気持ちが、胸の奥でもやもや渦巻いてなにもしゃべれず、川島君もさっきよりはいくらか口数も少なくなってしまい、長い時間ふたりは黙って歩いていた。
わたし、嫌われちゃったかな?
喫茶店にいたときも緊張しっぱなしで、あまりしゃべらなかったから、退屈な子だと思われたかもしれない。
川島君は歩きながらふと、思いついた様に話しはじめた。
「でも、高校を卒業してしまうと、急に大胆になれるな」
「そ、そうね」
「あの頃は弥生さんと、こうやっていっしょに歩くことがあるなんて、思いもしなかったのに」
「わたしも」
だけど、わたしはずっと夢見ていたよ。川島君の隣にいるわたしを…
「たった半年前のことなのに、人って変わっていくものなんだな」
あ…
川島君ってやっぱり、わたしの心の琴線に触れるようなことを言う。
「だけど、変わりたくないものも、あるよ」
「え?」
川島君はちょっと言葉を探すように黙った。
「どんなに年をとっても、どんな経験をしても、自分の中で変わりたくない部分、守っていきたいものって、あると思うよ」
「そうね」
川島君はなにを考えて、そんなこと言ってるのかしら?
やっぱり、創作することへの情熱とかかな?
わたしだってもちろんそうだけど、川島君への想いも、いつまでも変わってほしくない。
川島君はまた少しなにかを考えているようだったが、意を決したように話しはじめた。
「そうだ。今度、ぼくの学校の仲間とかで、同人誌作ろうって話してるんだ。写真でもイラストでも小説でも、なんでもありのね。自己満足とかじゃなく、人に読ませられるような内容にできればいいなって話しているところなんだ。よかったら、弥生さんも参加しない?」
「同人誌? わたしが?」
「本の名前も細かい内容もまだ決まってないけど、小説を書く人も何人かいるよ。」
「わたしなんかでいいの?」
「もちろんさ」
「うん。じゃあ、やってみようかな」
「ほんと? 嬉しいよ。弥生さんみたいな人が入ってくれて」
「そ、そんな」
彼の嬉々とした笑顔がわたしの心を揺さぶる。
その言葉の端っこにただようニュアンスが、いちいちわたしをせつなくさせる。
『弥生さんみたいな人』
いったい川島君は、わたしにどんなイメージ持ってるんだろ?
知りたいけど聞けない。
恋の女神って、ほんとに意地が悪い。
わたし、こんな気持ちのまま、これからも川島君と会うのかな?
それはとっても嬉しい。
嬉しいことなんだけど、やっぱり… 怖い。
「家まで送るよ」
川島君はそう言って、いっしょに電車に乗り、とうとうわたしの家の前まで送ってくれた。
「ごめんなさい。わざわざ遠回りさせてしまって。これから帰るの、大変でしょ?」
「いいんだ。女の子を夜中にひとりで放り出す方が、よっぽど心配だからね」
「あ、ありがと」
「じゃ、またね」
「こ… 今度はわたしにおごらせてね」
これが今わたしに言える、精いっぱいの言葉。
玄関のドアを閉めながら、わたしは振り返って彼に会釈した。
川島君はちょっと真剣な顔をして、わたしの瞳を見つめている。
「今日。会えてよかったよ、さつきちゃん」
「え?」
川島君はニコリと微笑んだ。
「高校の頃、弥生さんはみんなからそう呼ばれていただろ。なんか可愛くて、ぼくも呼んでみたかったんだ。ごめんよ」
「う、ううん」
「じゃ、おやすみ」
「お、おやすみなさい」
そう言って川島君は小さく手を振りながら、暗い夜道を歩いていく。彼のうしろ姿が闇に吸い込まれ、並んだ街灯に、そのシルエットが浮かんでは消え、消えては浮かび上がる。
わたしはずっとそれを見ていた。
追いかけたいけど、動けない。
名前を呼びたいけど、声が出ない。
なんてもどかしいの?
わたしは『ただいま』も言わずに家に入ると、そのまま二階の自分の部屋にかけ上がり、ベッドの上に高校時代の川島君の思い出につながるものを、片っぱしから広げていった。
アルバム。
卒業文集。
修学旅行の写真。
友達にもらったスナップ。
サイン帳。
想いを綴った、あの頃の日記…
わたしはミニコンポのスイッチを入れると、CDをトレイにかける。
竹内まりあの『リクエスト』。
ふと触れた指先に
心が揺れる夜は
秘め続けた想いさえも
隠せなくなる
友達でいたいけど
動き出したハートは
もうこのまま止められない
罪のはじまり
word by MARIA TAKEUCHI
あの冬の日…
寒さに凍てついた心を、小さな炎が溶かそうとしているのを、わたしはもう、止められそうもない。
竹内まりあのせつない歌声が、そんな行き先のわからない恋にからまって、わたしの心の奥底に悲しく響いてくる。
わたしはベッドにもたれたまま、クッションをひざに抱えこんでその中に顔を埋めながら、音楽に聴き入った。
END
8th Feb 2011 初稿