押し入れの隅から出てきた、20年も前の古ぼけたキャンパスノート。
ぎっしりと綴られた文字。
何度もめくられた、ノートのすれ。
それはまぎれもなく、わたしの青春のしるしだった。
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夏の日射しの中を、ひとりの少女がかけてくる。
熱いアスファルトからは陽炎が立ちのぼり、彼女の存在が曖昧に揺れる。
それはまるで、いつか見たシネマのワンシーンのように、幻想的。
「ごめん、待った?」
そう言いながら、彼女はわたしの前で息をはずませた。頬がピンク色に上気して、薄紫色のワンピースによく映える。
「ううん。わたしも今来たばっかりよ」
わたしがそう答えると、彼女はニッコリ微笑んだ。冴えたロゼカラーの口紅が、印象的。
「綺麗な口紅ね」
「そう? PERKY JEANよ」
「PERKY JEAN?」
「ん〜。『生意気でわがままな小娘』ってとこかなぁ。ふふ。気に入ってるの」
そう言って彼女は肩をすぼめて、ペロッと舌を出した。
ふうん。まるで化粧品のCMの受け売りみたいだけど、彼女にはその口紅がすごく似合っている。
「やぁね、そんなに見ないでよ。さ、早く行かないと電車に乗り遅れるわ」
そう言って、彼女はわたしを促した。
実はまだ、わたしは彼女のことを、よく知らない。
彼女と知り合ったのは、今年の春。
進学したばかりの西蘭女子大学の、キャンパスの中だった。
入学式のセレモニーで、緊張していたわたしの隣で、彼女はじっと瞳を閉じていた。
学科に分かれてこれからの講義の説明を受けている時も、彼女は隣の席でうつむき、唇をキュッと結んだまま、教官の話さえも耳に届いていない感じで、まるで自分の殻に閉じこもっているように見えた。
そんな彼女の様子に、これからのキャンパス生活を想像して、戸惑いながらも興奮を隠せない他の女の子達とは違う、思いつめたような重たい「なにか」を、わたしは感じて、思わず声をかけてしまった。
「なんだか緊張してしまうわね。高校とはまるで違うんだもの。あ、わたし弥生さつきって言うの。『三月五月』なんて、なんだかふざけた名前でしょ」
彼女はふと、我に返ったように顔を上げてわたしを振り向き、今までの厳しい表情とはまるで別人のように、ニッコリと素敵な微笑みを浮かべて、ひとこと言った。
「よろしくね。森田美湖よ」
人と人の出会いって、つくづく不思議。
「弥生さつき」の「や」。
「森田美湖」の「も」。
出席簿に並んだふたつの名前が、ふたりを結び、たがいの未来を変えてゆく。
それは運命の織りなす、気まぐれないたずらなんだろうか。
わたしと彼女は、選択教科や好きなミュージシャンとかがいっしょだったのもあって、すぐに親しくなった。
今じゃ彼女はわたしを「さつき」って呼ぶし、わたしも「みっこ」ってニックネームで彼女のことを呼んでいる。
ふたりとも海がとっても大好きで、「夏休みになったら泳ぎに行こう」って計画を立てていた。
でも、海に行く以上にわたしにとって興味があったのは、
「森田美湖」
そのものだった。
“プシュー”
ホームに滑り込んで来た電車のドアが開く。
降りかけたサラリーマン風の男の人や、買い物途中の主婦、若い女の子達までもが、みっこを見ると驚く様に目を見張り、振り返って見とれる。
「さつき。あそこが空いてるわ」
そういう他人の視線にはおかまいなしに、みっこは電車に乗ると座席に腰をおろす。わたしはその隣に座って、彼女を横目で見つめた。
まったく… とびきりの美少女。
女のわたしでさえ、森田美湖には初めて見た時から、目が釘付けになっていた。
彼女はまるで、巨匠が作った仏蘭西人形が、そのまま命を持ったみたいだった。
パッチリと冴えた明るい瞳。
キリリと引き締まった太いまゆに、長くそった睫毛。
品よく整った唇。
天使の輪がキラキラ光る、セミロングのストレートヘア。
それらのパーツが小さな顔に収まって、ノースリーブのワンピースからは、長くて華奢な手足が伸びている。その肌はきめ細かくてなめらかで、真綿のよう。
森田美湖は女の子なら誰もが憧れる、ファッションモデルのような、魅力ある容姿をしていた。
まあ、そんな彼女にクラクラきたってのもあるけど、わたしが本当に興味を持ったのは、彼女の真の姿。
初めて彼女と話したときの、重たい表情から魅力的な微笑みに変わっていくさまを、わたしは今でもビデオのスローモーションのように、思い出す。
それはとっても不自然で、わたしは彼女の美しい容姿のうちに秘められた、アンバランスな感情に、余計に惹かれているのかもしれない。
友達になってからも、彼女とはまだあまり深い話しはしていないが、今日のバカンスで、そんな話しをするきっかけでもつかめるといいかな。
快速の止まる駅で電車を降りて、行き先の海まではバスでさらに20分。
終点のアナウンスを聞きながら、わたしたちはバスを降りた。
ストームの様な熱気。
トップライトで照りつける太陽。
まぶしい砂の白。海の青。わき上がる雲の白。空の青。
ギザギザなコントラストがとっても鮮烈。
「どう? この水着」
更衣室から出てきた彼女は、そう言いながらファッションモデルのように、クルリと回ってみせた。
とっても素敵!
マゼンタ色の生地に熱帯樹の模様をプリントした、ワンピースの水着。ヘアは頭の両側でリボンを絡めてふたつ結びをしていて、とっても可愛くて綺麗。
「うん。すごくいいじゃない」
そう言いながら、わたしは無意識のうちに、羽織っていたバスタオルで自分の水着の胸元を隠した。
彼女はまるで、いらない部分をみんな削り落とされたヴィーナスの彫刻みたいに、洗練された美しいボディラインなのだ。
身長は160cm足らずでわたしとそう変わらないのに、頭が小さくて腰が高く、手足がすらりと長いおかげで、フラミンゴとペンギンくらいスタイルが違って見える。
この子といると、自分のコンプレックスがいちいち突き刺さってしまうのよね…
「泳ご! さつき!」
そんなわたしの煩悶を知らずに、彼女はなぎさへかけ出した。
「みっこ。準備運動しなきゃ」
「そんなの、いらない」
みっこうはそう言って、キラキラ光る波頭をつま先で砕きながら、振り返って笑う。意外と活発なんだな。
しばらくふたりで泳いだり、ビーチボールで遊んだりして、わたしたちはなぎさに上がって写真を撮りあった。
「みっこ。その辺に立ってて」
わたしはコンパクトカメラをバッグから取り出す。わたしがカメラを構えると、彼女は軽くポーズをとった。
「こんな感じ?」
「いいじゃない!」
わたしはそう言ってシャッターを押した。
みっこは流れるようにポーズを変えていく。
両手で髪をかきあげてウインクしてみせたり、脚を軽く上げながら首をすぼめて、ちょっと振り返ったり…
そんなしぐさがやたらとキマってて、とってもキュート。
「へえ。みっこってまるでモデルみたい!」
わたしは夢中でファインダーを覗きながら言った。みっこはニコリと微笑んで、わたしのそばに寄ってくると、カメラを取り上げた。
「さ、次はさつきの番よ。ハイ! じゃその辺に座ってみよかな」
「え?」
わたしは言われるまま、しかたなく腰をおろす。どうも写真撮られるのって苦手なんだ。せめてもう少し可愛ければ、もっと楽しいんだろうけど…
「ほら、さつき。モデルはもっと大胆にね。そう胸張って。ハイ! 笑って笑って!」
みっこは笑いながらバシバシとシャッターを切った。
「もう。いきなりカメラマンにならないでよ」
みっこに次々とポーズを付けさせられて、めげてしまって、わたしはへたり込んで言う。みっこはそばのバッグにカメラを置き、ファインダーを覗くとタイマーをセットした。
「じゃ、今度は記念写真ね」
彼女はわたしのそばにかけ寄り、ふざけて肩を抱きながらピースして微笑む。わたしも彼女のマネをして、レンズに向かってピースした。
写真もひととおり撮ってしまうと、わたしとみっこは砂の上に寝っ転がった。
灼けた砂粒が、からだの芯までジリジリ喰い込んでくるみたいで、『夏っ!』って感じ。
みっこは隣にペタンと尻もちついて、わたしの背中に砂をかけて遊ぶ。
「やん。くすぐったい」
彼女はクスクス笑って、やめようとしない。
「あっ。あたしジュース買ってこよ。さつきも飲む?」
「わたし… ジンジャーエールかなぁ」
「オッケ! ちょっと待っててね」
彼女はバスケットから財布とサマーセーターを取り出して、それを羽織りながら歩いていった。
別に寒いってわけじゃないのに… 露出嫌いなのかしら?
みっこはしばらく帰ってこなかった。
「遅かったじゃない。どうしたの?」
15分程して、ようやく2本の缶ジュースを抱えて戻ったみっこに、わたしは聞いた。
「うん。ちょっと、つまずいちゃって…」
「なにに?」
「ただのゴミ箱」
「?」
はて。ごみ箱につまずいて遅くなったって言うの? なにか変。
「それよりお昼にしない? あたしおなかすいちゃった。おべんとかなにか、買ってくればよかったね」
「まあ、みっこ、待っててよ」
わたしは得意げに、自分のバッグから包みを取り出し、みっこの前に広げる。中には早起きして作ったサンドイッチ。
「さつき。持ってきてたんだ」
「みっこの分も作っといたのよ。食べてみてよ」
「ありがと、さつき。いただくわ」
嬉しそうにみっこはサンドイッチをほおばり、ニッコリ微笑む。
「…ん。おいしい! さつきって料理うまいんだ」
「まかせなさい」
「お嫁にほしいな〜」
そう言ってみっこは笑う。天真爛漫な笑顔。
こんな時わたしは、『みっこと知り合えてよかった』って思える。
『生意気でわがままな小娘』というとおり、少しわがままで、自分の思い通りに生きてるみたいな子だから、たまに引きずられることもあるけど、彼女といるとウキウキしてくる。
だからずっと、友達でいたい。
わたしはまだ、告白なしの片思いの恋しかしたことがないし、恋人のいる楽しさなんて知らない。
今どき、内気で彼氏も作れない女の子なんて、ちょっと天然記念物ものかもしれないし、男の人ってのはどんなものなのか、もちろん興味はあるけど、好きな友達といっしょにいる方が、今はずっと楽しいと思う。
だけどみっこはきっと、彼氏いるよね。
友達になってからも、彼女とはそういう突っ込んだ話はしたことなかったんだけど、こんなに綺麗な女の子を、回りの男たちが放っておくはずがないわ。
みっこはわたしのこと、どう思っているんだろう?
友達?
それともただ、大学で知り合ってちょっと遊んだ程度の、たくさんの取り巻きの中の、ひとりかな?
う〜ん。そんなのはなんだか、せつないかも…
「わたし、ちょっと紅茶買ってくる」
もやもやした気分を吹っ切るように、わたしはその場から離れた。
海の家の横にある自動販売機の前に立ち、コインを手に持ったまま、わたしは自分のとりとめのない気持ちを整理していた。
そのときだった。
「それ、オレがおごるよ」
光がさえぎられ、自販機がガチャガチャ動いたかと思うと、わたしの目の前にいきなり缶コーヒーが差し出された。
「え?」
思わず受け取って振り返ると、そこには20歳くらいの大学生風の男の人がふたり立っている。
声をかけてきた方は、サングラスをかけたちょっとキザで怖そうな人。もうひとりは頬にニキビがいっぱいあって、イモっぽい。わたし、サングラスって,相手の目が見えないから、怖くて好きになれない。
「ど、どうしてですか?」
ドキドキして、うまくしゃべれない。
『ナンパだ!』
そう思ったものの、こういう経験なんてほとんどないから、どうしていいかわからない。
「おまえ、あの花柄の赤い水着着た女の友達だろ」
サングラスの男が言う。みっこのこと? ていうか、いきなり『おまえ』はやめてほしい。
「実はこいつがその子と話したいってサ。だから紹介してくれヨ」
『こいつ』と呼ばれたニキビの男は、柄にもなく照れている。な〜んだ、みっこが目当てか。そんなものよね。
「ちょっとだけでいいんよ。頼むけ」
「でも…」
わたしはどう答えていいのかわからなくて、しどろもどろになってしまう。そのとき、ふたりの肩越しにみっこがやってくるのが見えた。
「さつきぃ。あたしも『午後の紅茶』買いにきたよ。サンドイッチにはやっぱり…」
彼女は明るくそう言ったが、ふたりの男に気づいて一瞬顔色を変え、口を閉ざした。
「さっきはどーも」
サングラスの男が言う。みっこは構えるように少し頭を下げる。
「知ってる人?」
わたしが小声で聞くと、彼女は吐き捨てるように耳打ちした。
「さっきあたしがつまずいた『ゴミ箱』よ」
あっ、なるほど。でもキツイ表現ね。
「あの。ちょっとでいいけ、時間くれん?」
「もうあなた達と話すことはないわ。さよなら」
「へ。そんな気取るなヨ。おまえらだって男に声かけられて嬉しいんだろ」
「さつき行きましょ。紅茶を買ったらもうここに用はないわ」
みっこは自販機から『午後の紅茶』を取り出すと、わたしの背中を押す。男達は未練がましく、彼女につきまとってくる。
「つきあいわりィな」
「…」
「な。頼むけつきあってくれよ。晩メシくらいおごるけ」
「…」
「おまえらも女ふたりで来てんだから、ナンパ目当てなんだろ」
「…」
「俺たちがずっと見よっても、あんたより可愛い女、ほかにはおらんよ」
「…」
「見なヨ。オレのクルマ。あそこのメタルブラックの『セルシオF10型』だぜ」
「…」
代わるがわる話かけてくるふたりの声がまるで聞こえないかのように、みっこはどんどん歩いていってしまう。そのうちやっとふたりも諦めた。
食事に戻ったみっこは、なにごともなかったかのようにサンドイッチを頬張った。
「あっ」
「どうしたの? さつき」
わたしは手もとの缶コーヒーをみっこに見せる。
「これ、さっきのサングラスの人がくれたんだ。捨てた方がいいかな」
「缶コーヒーに罪はないわ」
「そうよね。ただでもらえてラッキーと思えばいいよね」
「ほんとは紅茶がよかったのにね」
みっこはそう言って微笑む。わたしは缶コーヒーを開けながら言った。
「でも、ちょっともったいなかった気もするかなぁ」
「なにが?」
「さっきのふたり」
「さつきは、ああいうのが趣味なの?」
「そ、そういうわけじゃないけど… でも夕ごはんおごってもらえるし」
「さつきはあんなサングラスとニキビ顔みながら食べる食事が、おいしいって思うわけ?」
「う… おいしくない、かも」
「じゃ、どんな男にでもシッポ振るようなマネはよしなさいよ。くだらない男に関わってると、こちらまでつまらない女に見られるわよ」
「ひどいんじゃない? みっこ」
「ほんとのこと言っただけよ」
「む…」
わたしは少しムッとしたけど、まあ、みっこの言うことがもっともね。
それにしてもみっこの口調は手厳しい。単にあのふたりに対する嫌悪なのか、それとも男嫌いなのか…
「みっこは彼氏、いないの?」
意外、といった顔をして、彼女はわたしを見た。
「そんなのいないわよ」
「うっそぉ。あなたみたいに綺麗な女の子だったら、恋人いないって方が不思議よ」
「綺麗だから性格もいいって、限らないんじゃない?」
「それは言えてるかも。みっこって、言いたいことをズバズバ言いすぎるもんね」
「そ… そうかな? ごめん。気にさわったなら気をつける」
みっこは少しあわてた口調で謝る。別に気をつけてもらう必要はないんだけど… そのよそよそしい取り繕い方のほうが、わたしには気にさわる。
みっこはなにかを聞きたいようで、しばらく言葉を探しているようだったが、ようやく切り出した。
「さつきは恋人、いるの?」
「え、わたし? わたしは… そりゃいたらいいなとは思うけど…
まだ恋に恋してるってのかなぁ。高校の頃に好きな人はいたけど、話もできなかったし、告白しようと思っても、なんだか怖くて。それに、好きとか嫌いとかの前に、男の人ってなんだか怖いし、よくわかんないのよね」
「ふうん。そんなものなの?」
「いいじゃない。そんなものよ! だいたいわたしは、みっこのこと聞いてるのよ」
「あたしは…」
彼女は最後のひとくちの紅茶を飲みほすと、遠い水平線に視線を移しながら言った。
「あたしはまだ、心から好きになれる男の人に、出会ったこと、ない…」
「恋したことがないの?」
彼女は黙っている。今までの明るさは影をひそめ、出会ったときに見せた厳しい横顔と、追いつめられたような眼差しが漂う。
「…あるわ」
「え。あるの? どんな人?」
「…」
「ねえ、その人とはどうなったの?」
「この話はもう、やめよ?」
「ご、ごめん」
「ううん。いいの」
そう言うとみっこはいきなり立ち上がって、なぎさへかけ出した。一瞬よぎった心の翳りを、かき消そうとするように…
「そのうち話すわ。今は海で遊んでいたいの」
みっこは波打ち際を走りながら、振り向いて手を振る。少し強くなった波が、彼女のからだで砕け、ビーズの様な水玉が空に散った。
「さつき。今日の晩ごはんどうしよっか?」
夕方近くまでたっぷり遊んだ後、ビーチボールの空気を抜きながら、みっこはわたしに聞いた。
「そうねえ。どこかでなにか食べて帰る?」
「逆ナンパしてみよっか?」
「ええーっ? なんなのそれ!」
彼女は驚いているわたしの手をとると、スタスタ歩きだした。
彼女の行った先は、例のふたり組の真っ黒いクルマ。サングラスとニキビは「ナンパ不発」といった冴えない顔でクルマのドアにもたれていたが、わたしたちを見てびっくりした様子。
「あれぇ?」
「はぁい」
みっこは愛想よく応えて、軽く手をあげた。
ええっ! どうしたのみっこ? さっきはあんなに嫌っていた人たちなのに。
「どうした。なんか用か?」
「ひどいあいさつね。せっかくあなたたちのクルマに乗っけてもらおうと思ったのに」
「お、オレ達の?」
「お俺達の?」
驚くふたりの声がハモった。わたしだってハモりそうになったわよ。
「もう先約があるなら、いいんだけどね」
「そ、そんな事ないサ。あってもおまえなら最優先だゼ」
「さっきは冷たかったのにな、へへへ」
「ちょっと気が変わってね。じゃあ、あたしたち着替えてくるから、待っててね」
ニヤニヤうなずくふたりに愛想笑いを送りながら、みっこは更衣室に向かう。
いったいどうなってるの?
『くだらない男に関わるな』って言ってた彼女が、こんな人達についていこうとするなんて。
「み、みっこ。待ってよ!」
わたしは彼女のあとを追った。すっかりみっこのペース。
サングラスの運転するクルマは、おなかの底に響く低音を残して、夏の海をあとにした。
「どうしてオレ達と付き合う気になったんだ?」
サングラスは『サザンオールスターズ』のCDをデッキにセットしながら、得意げにみっこに聞いた。
「夕食おごってくれるって言ったからよ」
「それだけか?」
「そのあとのことは、気分しだいね」
「ははは。『気分しだいで責めないで』ってか? おまえ気が強いな。じゃ、なんか食いにいくか。オレ、うまいレストラン知ってるゼ。神戸牛の…」
サングラスの話をさえぎるように、スピーカーからすごい音が飛び出してきた。シャンシャンしたかん高い音が、なんとも耳障りで不愉快。こんな大音量じゃ会話する雰囲気にならないわね。
サングラスが案内してくれた店は、『田舎の日曜日』という、洒落たフレンチレストラン。
室内の柔らかいダウンライトに浮かび上がった家具や煉瓦は、フランスのカントリー調で、サングラスのエスコートにしては上出来。まあ、「タウン誌で調べました」って感じだけどね。
「あたし、このいちばん高いディナーにする。みんなもこれでいいでしょ。ワインは赤のフルボディがいいわ」
テーブルについてメニューを開いたみっこは、ためらわずに『ブローニュの森』ってネーミングの、15,000円もするフルコースを注文する。そしてすぐに、向かいに座った男たちと会話をはじめた。こんな時、わたしはいったい、なにをしゃべればいいんだろ。
「なぁ、自己紹介まだだったな。おまえらの名前、教えてくれヨ」
とサングラスが聞いてきた。わたしが口を開けるよりも早く、みっこが答える。
「あたしは河合美津子。この子は松田早紀。でもみっことさっこでいいわ」
「福岡の人?」
「ううん。埼玉県人」
「でも福岡の大学に行ってるんだろ。ふたりともお嬢っぽいよな。明治学院かその辺だろ」
「残念でした。埼玉の大学よ。今は夏休みで九州のおばさんちに遊びに来てるの。あたしたち、いとこなの」
「仲いいんだな」
「わかる? いとこで親友なのよ」
そう言ってみっこはコロコロと笑う。わたしはあっけにとられて会話に入れない。
名前はもちろん、『埼玉』だの『いとこ』だの、み〜んなデタラメ。
なんとまぁ、こうもすらすらと嘘が出てくるのかしら。
みっこはこのふたりに、全然気を許してないんだ。なのに『ニックネームで呼んでいい』って言って、うちとけてるフリしてる。巧妙な手だな。
実際ふたりは、馴れ馴れしく話してくるようになった。名前も教えてもらったけど、すぐに忘れちゃったので、『サングラス』と『ニキビ』で通すことにする。
「でも大学生ってヒマなのねー。ナンパしかすることないの?」
「んな事ないゼ。テニスやウィンドサーフィンなんかやるし、毎年冬には北海道にスキーにも行くんだゼ。北海道の雪はこっちと違って最高にごきげんサ。最近はゴルフにこっていて、この前なんか5番ホールでイーグル出してサ。スコアだって90切った事だってあるんだゼ」
「ふうん。すごいすごい」
みっこのひやかしにも気づかないで、サングラスは得意げに続ける。ん〜。この人の語尾って、なんかキザっぽくって、いやらしいのよね。
「それにクルマの事ならメチャ詳しいゼ。あの『セルシオ』も新車で買ったんだ」
「500万だぜ。500万!」
ニキビが口をはさむ。
「それに自分でチューンアップして、オイルクーラーつけてローダウンさせて、ホイールも16インチはかせてサ。こいつはピエゾTEMSでサスが可変だから、そこも固めにチューンして、コーナーの喰いつきを上げてるのサ」
「カーコンポもSONYのグライコ付きなんよ。しかもDATまで装備してデジタルアンプで、すげー音がいいやろ」
ああ… わたしには理解不能の話題。クラクラしそう。どーでもいいけど、ふたりとも食べ物口に入れたまましゃべるのはやめてよね。クッチャクチャと品がないから。
まあ、いいか。最初の目的に専念しよ。このお店のメインディッシュ、お肉が柔らかくってソースもおいしい。サングラスのおすすめってのは気に入らないけど、みっこ風に言うなら『レストランに罪はない』よね。
「さっこの趣味はなん?」
ニキビがいきなり、話をわたしに振ってきた。
「えっ? えっと… 本読んだりとか、音楽聞いたりとか… くらい」
「俺も本読むんよ。赤川次郎とか山田詠美とか。『ノルウェイの森』はわけわからんであんまりおもしろなかったけど、映画化されたら見たいだい」
「そうかな? 最近の原作つきの映画って、解釈が浅いくせに奇抜に走りすぎで、原作の世界観を壊しちゃってるものが多い気がするわ。小説には活字でしか表現できない世界があるから、その映像化はやっぱり難しいと思うの。それに今の若者向けの小説って、ムードばかりに流され過ぎてて、刹那的でおもしろくない。わかる人にしかわかんないって感じで、普遍性もないし、語彙もステロ化してるんじゃない?」
「…」
わたしがしゃべった後は、しばらく誰も口をきかなかった。
みっこはひとりでクスクス笑ってる。や、やっぱり場に合わない話だったかな…
「あ。シャンパンで乾杯とかしようか?」
サングラスはそう言って、話をはぐらかした。
それでも会話のイニシアチブはみっこが握っていた。
彼女は巧みにふたりから『好みの女の子』なんてのを聞き出す。そんなふたりの話を聞いていて、わたしは失望してしまった。
ふたりが女の子のことを話すとき、たまに『ギャル』なんて言葉を使うんだけど、わたしには『GAL』は『GIRL』より一字足りない、女性を見下したスラングにしか聞こえない。
彼らの理想の『ギャル』ってのは、つぶらな瞳で笑顔だけがとりえな、男の人に「はいはい」と従うだけの女の子なんだ。それって女の子をただの「もの」としてしか、見てないんじゃないのかしら?
う〜ん… こんなこと考えながら食事したって、ちっともおいしくないわよね。
「ねえ。ナンパはいつもやってるの?」
おっと〜。大胆なみっこの質問。さすがにふたりも慌てた。
「いいのよ、気にしてないから。今日が初めてってわけじゃないんでしょ。今までひっかけた女の子、どうだった? すぐころんだ?」
「あ… アブナイ会話だな。みっこはやっぱりおもしろいゼ」
「はぐらかしたってダメよ。白状しちゃいなさいよ」
「ん、まあ… ワンレンボディコンの女は、クルマ見ただけでついてくるな。それからDCグッズを買ってやって、テレビに出たレストランとかカフェ・バーに連れていったら、もう舞い上がるんだ」
「その後で、『イルパラッツォ』あたりのシティホテルに連れ込む、ってわけね?」
「はは。そんなホテルだったらもう浮かれちまって、何でもやらしてくれるゼ。まったく九州のイモねーちゃんはレベル低いな。その点みっこは違うゼ。場慣れしててお嬢さまっぽくて、おまえを知ったら、もう他の女なんかと付き合えねえゼ」
「やっぱりみっこがイカすギャルやね。この前の女なんかブクブク肥えててよ。ブスブタは女の価値ないだい」
わたし… あったまにきた。
手に持っていたコーヒーを、このふたりにぶっかけてやりたいくらい。
こんな男たちに女の子を愛する資格なんて、ない!
もういい!
こんなのとは一瞬もいっしょにいたくない。
向こうでわたしたちのテーブルをちらちら伺っているウエイトレスも、なんだかわたしたちをバカにしたような目線に感じる。わたし、こんな人たちといっしょにされたくない。
みっこ、もう帰ろう! せっかくの楽しいバカンスが台無しだわ。
わたしはふたりに気づかれないよう、みっこをつついた。
「もう出ましょ。あたしたち、外で待ってるわ」
みっこはわたしからのサインを待っていたかのように、ふたりにそう言うと、席を立った。
「
最悪!」
わたしはレストランの外に出るなり、みっこに怒りをぶつけた。みっこは涼しげな顔をして応えた。
「そう?」
「なんであんなのと食事したりしたのよ」
「さつきが『男の子のことはよくわかんない』って言うから、見せてあげようかなって思って」
「…そうだとは思ったけど、でも、あれはひどいんじゃない? どうせなら、もっといい男のことを知りたいわ。
みっこも言ってたじゃない。『くだらない男に関わってると、こっちまで低く見られる』って。
わたし、いっしょに食事してても、店員さんや他のお客さんに『くだらない女』って見られてるようで、すごく恥ずかしかったわ」
「そうね。失敗したかもね。今度はもっといい男、ナンパしようね」
みっこはそう言ってニッコリ微笑んだ。
ん〜。彼女にとっては全部計算どおりなのね。彼らの言動もわたしの反応も。
そう考えると、ちょっぴり安心するかな。
「ねえ。これからどうするの?」
わたしはみっこに訊いた。
「そうね…」
「今、あいつらいないし、このままこっそり帰っちゃおうよ」
「まあ、あたしに任せててよ」
「じゃあ、どうするのか教えて。今度はわたしもみっこの行動知っとかないと。今日はもう,振り回されっぱなしだから」
「そうね。おもしろくなるのはこれからよ」
「どうして?」
「食事に7万円も投資すれば、元を取ることを考えるはずでしょ」
「え?」
「さつきはあたしのそば、離れちゃダメよ」
みっこはわたしを見つめて、意味深な含み笑いを浮かべる。
この子はいったいなにを企んでいるんだろ。なんだか怖い。
レジをすませたふたりが、レストランから出てきた。贅沢な食事代はこたえたらしく、なんだか浮かない顔をしている。
「ごちそうさま」
みっこが愛想よく笑った。
「ああ。うまかっただろ?」
「さすがにあなたのチョイスのお店ね。気に入ったわ」
「よかったな。それより走ろうゼ。ドライブはやっぱり夜に限るからな」
サングラスがみっこの肩を抱いてクルマに誘う。彼女はなにも言わず、ナビゲーターシートに身を沈めた。
陽の暮れた郊外の国道のドライブは、おなかが満足になったわたしには、ゆりかごのように心地いい。しゃくだけど、やっぱり高級車は乗り心地もいいし。
ルームミラー越しに映るみっこも、うつむき加減にウインドウに首をかしげて、瞳をトロンとさせている。襟ぐりの大きなワンピースは、みっこの胸のふくらみの陰影をさらけだし、運転席のサングラスは、それをチラチラ盗み見ているみたい。みっこ、そんなに隙を見せて、大丈夫なの?
「あたし、眠くなっちゃった」
みっこが誰に言うでもなく、つぶやいた。
「休もうか、みっこ」
「どこかで休もう!」
サングラスとニキビの声が再びハモった。しばらく沈黙して、みっこは気だるげに言った。
「夜の海が見たい」
ええっ? それってなんかマズくない?
みっこは続けた。
「あたしたちが会った海に、行こ?」
「いいゼ。さっこはどうなんだ?」
わたしもうなずくしか、ないじゃない。
昼間、あれだけ賑やかだった海岸は、今は人影もなく、ただ波の音だけが静かにざわめいている。
ときおり、遠くの岬の灯台が、四人の姿を闇の中に浮かび上がらせる。
声を出せばピンと張った空気が壊れそう。そんな静けさを切り裂くように、時々他のクルマが爆音を響かせて走り抜けていく。
「みっこ、灯台の方に行ってみようゼ」
「さっこ、俺達はこっちに行こ」
彼らはまるで打ち合わせていたかのように、別々の場所にわたしたちを誘った。
えっ? お互いふたりっきりになるの? いやよ。絶対イヤッ!
「もう少しいっしょに歩きましょ。楽しくおしゃべりしたいわ」
みっこの言葉に男たちはしかたなくうなずき、『楽しいおしゃべり』をはじめた。
サングラスの質問は次第に露骨になってきた。
「みっこ。おまえもうバージンじゃないだろ? 何でも知ってるって感じで、慣れてるもんな」
「あら? あなたたちのことは知らないわ」
「じゃ、オレを知ってみろよ」
「ふふ。あなたがじょうずに口説けたら、考えてもいいわ」
ふぅ… わたしにはついていけない会話。
でも彼女、ほんとにそんな経験あるのかしら? それはそれで、なんだか興味あるかも。
「さっこは?」
不意にニキビが訊ねてきた。
「えっ? わたし?」
なんて答えたら…
しかし、わたしが迷う間もなく、みっこがフォローをいれてきた。
「この子ちゃんと彼氏いるのよ。だから手なんか出したら、あとが怖いからね」
ニキビは「チッ」と舌打ちしたような顔。ふん、いい気味。それにしても、みっこの機転の速さには感心するな。
ゆるやかに弧を描いた長い砂浜を、わたしたちはあてなく歩く。
小さな湾を隔ててほとんど正面に、クルマを止めている海水浴場の水銀灯や、海の家の明かり、時間待ちをしているバスのライトなんかが、チラチラと瞬いている。岬の灯台は山にかくれて光も届かなくなり、海沿いの国道を走るクルマも、もうまばら。
いったいどこまで歩くのかしら?
みっこほんとに大丈夫なの?
道ばたには海水浴場からふたつ先のバス停があるから、かれこれ3キロくらいは歩いている。そのあたりの砂浜でみっこはようやく腰をおろした。続いてサングラスが、みっこにぴったりくっつくように座る。
「じゃましたら悪いけ」
彼女の隣に座りかけたわたしを、ニキビはそう言って遮った。みっこはなにも言わない。ニキビはふたりから20メートル程離れた草むらに、わたしを連れていく。わたしは気が気じゃない。みっこ、これからどうするつもり? わたしの脳裏には、ふと、昔見た青春映画のワンシーンがかすめたけど、今はキャスティングが悪すぎる。
『さつきはあたしのそば、離れちゃダメよ』
そんなみっこの言葉を思い出す。だから、彼女から離れてしまったことが、不安でたまらない。
「…楽しかったよ。食事もうまかったし。なんたってみっこ…」
「Kiss in blue heaven♪ 連れていってねぇ…」
風に乗ってとぎれとぎれに、ふたりの会話が聞こえてくる。みっこをなんとか口説こうとしているサングラスを無視して、彼女は歌なんか歌ってるみたい。
「おまえみたいなキレイな女って… …てだ。なんでもして…」
「誘惑されるポーズの裏で 誘惑してる ちょっと悪い子♪」
「…だろ。無理もないけどサ。お前が好きに… おい。聞いてるのか?」
「聞いてるわ」
「え?」
そのとき、わたしの肩になま暖かいものが触れた。
ギクリとして振り向くと、それはニキビの腕。
一瞬、わたしは自分がどういう状況なのか、わからなかった。が、次の瞬間、寒気とともに呑み込めた。
わたし、ニキビに肩を抱かれてるんだ!
「は、放してよ!」
「いいやない。これくらい」
「いやっ!」
わたしが拒んでも、ニキビは腕の力をさらに込めてわたしを抱き寄せ、顔を近づけてきた。
ぞっとする。
嫌いな男に触られるのって、生理的にイヤ!
わたしは必死に肩をよじった。
「やめてよっ」
「いいやない」
「いやっ!」
「一回だけ。ね」
「絶対ダメッ!」
ニキビの猫なで声にかえって恐怖を増してきて、わたしは精いっぱい拒んだ。
しかし、ニキビは強引にわたしのあごに手をかけて、顔を持ち上げようとする。わたしは歯をくいしばってうつむくけど、ちっともかなわない。すごい力。どうしてこんな野蛮人がわたしより力があるの? 女の子って理不尽よ。怖いっ!
「放してよっ!」
その時、リンと澄んだ声があたりに響き渡った。
わたしじゃない。反射的にわたしはみっこを振り返った。
ニキビも思わず手を緩める。みっこはサングラスに向かって立ち構えている。
「い… 今さらカマトトぶるなよ。おまえだってそれを承知でついてきたんだろ」
サングラスは色を失っている。
わたしはニキビの腕をすり抜けて、みっこの方にかけ寄った。
「うぬぼれないでよね。あたし、承知なんかしてない」
「じゃどうしてオレ達の誘いに乗ったんだ!」
「食事おごってもらうためって言ったわ」
「夜の海が見たいってのは、なんなんだ!」
「見に来ちゃいけないの? ただそれだけよ」
「そんな勝手なことぬかすなヨ!」
「じゃあどうすればいいの? 食事のお礼にキスでもセックスでもしてあげればいいわけ? それこそあなたたちの勝手じゃない。ばかにしないでよね」
みっこはサングラスを睨みつけながら、速い足取りでわたしの方へ歩いてくる。サングラスはなにもできず、ただ棒立ち。
すごい!
まったく毅然としてて、相手の男につけいる隙も与えない。
「さ、行きましょ。まったくこの人たち、不愉快だわ」
かけ寄るわたしの手をとって、みっこは国道に向かって早足で歩いていく。
「おい、待て。待てって言ってんだよ! おまえら! くそっ!」
サングラスは期待を裏切られた怒りと、恥をかかされた悔しさで、顔を真っ赤にして追ってくる。やばいよ、やばい!
「み、みっこ。早く逃げよ!」
わたしは彼女をせかした。
こんな凶暴になったサングラスには、なにをされるかわからない。やばいよ!
「ふふ。大丈夫よさつき。ほら」
国道に出たみっこは、微笑んで向こうの明かりに手を振った。
バスが、来たんだ。海水浴場から!
行き先には、わたしたちの市の名前が記してある。バスはわたしたちを認めてスピードを落とした。
「じゃああたしたちはバスで帰るわ。あなたたちも早くクルマに戻った方がいいかもよ。あたしすぐ戻るつもりで、窓もドアも開けたままにしてきたから」
わたしの背中を押しながら、みっこはバスのステップを軽やかにかけ上がり、ようやく追いついたふたりに向かって微笑んだ。男たちもさすがにバスの中までは追いかけてこれないみたい。
「降りろよ。もう少し話そうゼ」
「いやよ。あなたたちといると、いつ帰してもらえるかわかんないもん」
「すぐに家に送るからサ。な」
「それにあなたたちといても、ちっとも楽しくないの。口説き方も全然ヘタクソだし。食事はおいしかったけどね。じゃあさよなら」
みっこは心から『してやった』といった顔で微笑んだ。バスはふたりの男を後に走り出す。
どんどん小さくなっていくふたつの影を見つめるわたしは、次第に爽快な気持ちになってきた。
いやらしい男たちに、最後はピシャリと平手打ちをくわせてやった気分。
わたしはバスのシートに座ってほっと胸をなでおろした。と、その時、大変なことに気がついてしまったのだ。
「あっ! わたしのバッグ。クルマに置いてきた!」
財布に水着、アドレス帳まで、みんなクルマに置きっぱなしだ。いっぺんでわたしたちの住所も電話番号もバレちゃう。一瞬でわたしの目の前が真っ黒になった。
「はい。さつきのバッグ。ふたつも持つとけっこう重いのね」
「みっこはそう言いながら微笑んで、わたしのバッグを差し出した。
「え? どうしてみっこが持って…」
「気づかなかった?」
「どうして…」
「もう、クルマに戻るつもりはなかったから」
「じゃ、はじめからみっこは、バスで帰るつもりだったの?」
彼女は大きくうなずきながら、わたしの質問を察したように話しはじめた。
「バスの時間は見てたわ。バス停の近くで座ったのも、計算のうちよ。あそこからは時間待ちしているバスがよく見えたでしょ。もう出るかなって思ってたら、サングラスがキスしようとしたのよ。その時バスが発車するのが見えたから、ケリをつけたわけ。だけど怒るタイミングが難しくってね。ちょっとアセっちゃった」
ケリをつけたって…?
すべて計算ずくだったんだ、みっこは。
あの時…
『逆ナンパしてみよっか?』
と言って男たちを誘って、『ケリをつけ』てバスに乗るまで、なにもかも?
そしてみっこは、あの男たちの下心を、見事に暴き出して見せてくれた。
それは、男の人のことを知らない、わたしのため?
わたしはみっこの大胆な緻密さに、しばらくは返す言葉がなかった。
彼女はようやく緊張がほぐれたかのように、穏やかな顔をして、窓の外の流れていく夜景を見ている。
わたしが見つめているのを知ってか知らずか、彼女はひとりごとのように言った。
「あたし。女をただのモノや飾りにしたがる男って、許せないの」
「え?」
「同じ人間として扱ってくれないような人には、相手にもそうしたっていいはずでしょ。だからさつきに『男のこと教えてあげる』なんていうのは、ただの口実なのかもね」
「そんな…」
「ごめんなさい。せっかくのバカンスなのに、さつきに迷惑かけちゃった。これが元で男嫌いになんか、ならないでね。 …あたしのことも」
「そんなことないよ。確かにかなりハラハラして怖かったけど。まあ、無事だったし… それになかなかできない体験もさせてもらったしね」
「あたしね…」
みっこは少し間をおいて、言った。
「昼間、『恋したことない』って、言ったでしょ」
「うん」
「あたし、ほんとの自分を見てくれる人が現れるまで、恋しないつもり。あたしをひとりの人間として見てくれる人じゃないと、もう、いっしょには、いられない」
彼女はそう言いながら、少し照れたように窓に肘をついて、外の景色に視線を戻した。
あ…
なんだか少しだけ、彼女のことがわかった気がする。
森田美湖は、ほんとに自分を大事にしているんだ。
それは端から見れば、生意気でわがままにも見えるけど、難しくて勇気のいることかもしれない。
そしてそれは、過去の恋愛のかけらから、自分自身を守る鎧のようなものでもあるのかも…
「みっこの言う『生意気でわがままな小娘』って、そんな感じなのかなぁ」
「そうね」
「PERKY JEAN… か」
わたしがそう言うと、彼女はニッコリ微笑んだ。
END
24th Jan. 2011 初稿
24th Apr. 2011 改稿