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Canary Ensis

 

 あれは、わたしたちが二年生に進級してすぐの、ちりそめの桜が綺麗な季節だった。
四年生になった被服科の小池さんが、ふらりとわたしたちのいる講義室にやって来て、みっこに声をかけてきた。

「森田さんお久し振り。わたしのこと覚えてる?」
「もちろん覚えています。お久し振りです、小池さん」
みっこは彼女を振り返り、ニッコリと微笑みながら挨拶した。
「今年も性懲りもなく誘いにきたわよ。秋の文化祭はわたしにとって、大学最後のファッションショーだし、ぜひあなたにモデル、引き受けてほしいのよ」
真剣な眼差しで、小池さんはみっこに懇願する。

去年、小池さんは、文化祭のファッションショーのモデルをみっこに固辞されて、ショーには作品を出さなかった。なのに、今年もこうやってみっこを誘いに来るなんて、よっぽど彼女にご執心らしい。
「森田さん。あなた最近は、テレビのコマーシャルや雑誌の広告なんかに、出たりしてるんでしょ? 噂じゃ去年はモデルを休業してたっていうけど、もうそんなことないのよね」
「ええ。今はプロモデルとして、バリバリお仕事してますよ」
にこやかに答えるみっこに意表を突かれたのか、小池さんの口調がどもった。
「じ… じゃあ、わたしのモデル、どうかな? うちのショーはギャラとか出ないし… だから、プロでやってる人に頼むのは、なんだか申し訳ないんだけど…」
「ええ。あたしでよければ」
「え?! ほんとに出てくれるの?」
「はい。むしろ、こちらからお願いしたいくらいです」
「ほんとにいいの?」
「あたし、小池さんの服はとても素敵だなって思ってましたし、それに去年、誘っていただいたとき、『来年は期待にそえるようにする』って、約束してましたから」
「ギャラとかは、払えないのよ」
「小池さんの服を着れるだけで、じゅうぶんですよ」
「へぇ…」
小池さんはそう言ってうなずきながら、みっこをマジマジと見つめた。
「森田さんって、思ったより律儀なのね。感激しちゃった」
「小池さんこそ、去年あんな失礼な断り方したにもかかわらず、今年もあたしを誘ってくださって、とっても嬉しいです」
「それはもういいのよ。よろしくね、森田さん。みんなが呼んでるみたいに、『みっこちゃん』でいいかな?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
そう答えて、みっこは微笑んだ。

 

 そうやって、小池さんのモデルをみっこが引き受けて、もう半年がたつな。
その間に、窓の外の西蘭女子大のキャンパスの木立は、ちりそめの桜から、若葉が萌える新緑。その緑も濃さを増していき、やがて、赤く色づいた落葉が舞い散る景色へと、衣替えしていった。

そう言えば若葉の頃は、川島君とみっこと三人で、由布院にバカンスに行く計画を立ててたな。
あの頃は、まだまだ無邪気だった。
みっこに対するコンプレックスは、出会った頃からあったけど、それは漠然としたもので、川島君をめぐる『ライバル』として、みっこを見たことなんて、なかった。
そう…
あのモルディブからの帰りの飛行機。

『あたし… 好きな人が、できちゃったみたい』

あのとき、みっこがそう告白してから、わたしたち三人の歯車は、微妙に狂いはじめてきたのかもしれない。

わたしは、みっこが好きになった人のことを、あれこれ勘ぐってしまい、川島君とみっこに対して、すっかり疑心暗鬼になってしまった。
もちろん、モルディブでの最後の夜に見たことから、みっこが好きな人は藤村さんだとは思うけど、川島君とのことも、なんだか心に引っかかる。
みっこは自分の恋を心の奥底に秘めたまま、それをわたしに悟られまいとしてか、恋の話になると、口を噤むことが多くなった。
川島君にしても、東京から帰ってきてからは、デートをしていても、『心ここにあらず』っていうことが度々あって、なにを考えているかわからなくなるときがある。

ふたりとも、わたしには、なにも話してくれない。
それは、話さなきゃいけないようなことをしていないからか、それとも、わたしには言えない理由(わけ)があるからか。

その『理由』とは…
わたしには、ひとつしか思いつかない。
『川島祐二と森田美湖はつきあっている』からと…

もちろん、それはわたしの、単なる思い過ごしなのかもしれない。
わたしがふたりに対して、いろんな疑惑を持っているから、そういう風に見てしまうだけなのかもしれない。
だったら、ふたりとちゃんと向き合って、その疑惑を晴らせばいいんだろうけど、わたしには、それができない。
もし、川島君とみっこが、本当に、いっしょにディズニーランドに行くくらい仲が良くなっているとしたら、わたしはふたりに、どういう態度をとっていいのか、わからない。
すべての事実が明らかになってしまうと、三人の関係はどう転ぶか、わからない。
だったら、川島君やみっこが秘密にしたいことは、わたしもあえて知らないでおいて、すませる方がいいのかもしれない。
わたしはふたりのことを、今も変わらず大好きだから、とりあえずわたしの気持ちは、みっこの恋同様、心の底に封印しておくしかない。

わたしの妄想は、いつもそこをグルグルと回っている。
それはまるで、シュレディンガーの猫。
生きているのか死んでいるのか、わからない、宙ぶらりんの状態。
真実は、封印を解くまで、謎のまま…

「さつき、なに、ぼうっとしてるの?」
みっこがそう言いながら、ポンと肩を叩いて、わたしはハッと我に返った。
そうだった。
今はドレスの仮縫い中だったんだ。

 10月も下旬になって、いよいよ文化祭が近づいてくると、ショーの準備は忙しさを増してきた。

「今度のショーは、オープニングに凝ったものだから、人手が足りなくて、さつきに『フィッター』を頼みたいの」
「フィッター?」
「ショーの間の衣装の整理や、着る手伝いをしてくれる人のことよ」
「うん。いいわよ。わたしやってみたい」
みっこから頼まれ、わたしも今回のファションショーには、『フィッター』として参加することになったんだ。

 放課後の広い被服科教室には、大勢の学生がいて、賑やかだった。
テーブルや壁にはデザイン画や布地、ボタンやレースの端切れなんかが散乱していて、ファッションショー前の追い込みの慌ただしさを、物語っている。
みんなそれぞれ、トルソーに衣装を飾りつけたり、一心不乱にビーズの刺繍をしていたり、ミシンでドレスを縫ったりしている。
文化祭まであと少しのせいか、みんな必死の形相で衣装製作に取り組んでいて、教室全体がピリピリした空気に包まれていた。

 文化祭のフッションショーは、去年と同じように、数人でチームを組んで、それぞれが決めたコンセプトに合わせて、数着の服を作っているという話だった。
小池さんのチーム『Misty Pink』は、デザインとパターンを彼女がやって、それをアシストする形で、縫い子さんが4人ほどついている。
出展する服のコンセプトやデザインを、メンバーみんなで決めている他のチームと違って、『Misty Pink』は小池さんのワンマンチーム。
さすが学園のファッションコンクールでグランプリをとって、『毎日ファッション・コンクール』にも入賞しているカリスマデザイナーだけあって、それでも『小池さんのチームに入りたい』という学生は多く、縫い子さんのレベルは高かった。
 わたしは『フィッター』とはいっても、それはショーのときの裏方で、服を作る技術なんてもちろんないから、製作の手伝いはできない。
だけど、服を作っていく過程には興味があったから、こうやって時々、みんなの邪魔にならないように、差し入れのお菓子を持ってきたり、ちょっとした雑用係をさせてもらっている。

 小池さんは、みっこに白い生地でできたドレスを着せて、服のディテールやシルエットをチェックしている。彼女はひとりごとをつぶやきながら、所々に待ち針や安全ピンを打っていく。それはとっても真剣な眼差しで、緊張感が漂っている姿。その隣では縫い子さんに選ばれたミキちゃんが、小池さんの手伝いをしていた。

「小池さん、このドレス、まだトワレじゃないですか? 本番までもう二週間もないけど、間に合うんですか?」
みっこは小池さんに言われるまま、腕を広げたり、首をかしげたりしながら訊いた。わたしはデザイン画を見ながら、みっこに質問する。
「トワレって?」
「デザインやサイズを調整するための、仮縫いの衣装のことよ。型紙ができたからって、いきなり本番用の布を裁断するわけじゃないのよ」
そんなトワレの袖に、レースを軽く縫いつけながら、小池さんは自信ありげに言う。
「大丈夫。これで最後のドレスだし、いざとなったら徹夜でも何でもして、絶対間に合わせるから。残りのドレスはほとんど完成してるしね」
「でも、小池さん、すごいです。今回8着も出品するなんて」
「みっこちゃんがモデルだと、いろいろイメージが湧いてきちゃってね。欲張りすぎかなと思ったけど、構成上どれも削れないし。それにアシストさんたちがみんな優秀で、仕事が速いから、なんとかなりそうよ」
そう言いながら小池さんは、隣で作業をしているミキちゃんに、微笑みかけた。
「わたし、尊敬する小池さんのアシスタントになれて、ほんとにラッキーです。こうやって小池さんのお仕事を手伝っていると、いろいろ勉強になることばかりなんです」
ミキちゃんは頬を上気させて嬉しそうに言い、小池さんのレースの取りつけ位置を見ながら、反対の袖に仮縫いしていく。

「みっこちゃんのボディラインって、ほんとに無駄がなくて、綺麗よね」
小池さんはみっこのトルソーをチェックしながら、ホレボレするように言う。みっこはちょっとはにかんだ。
「ありがとうございます。胸にもムダがないでしょ」
「あははは。わたしはこのくらいの大きさがいちばん好きだけどね。デカ過ぎる胸じゃ、わたしのデザインするようなスレンダーで可愛い系の服には、似合わないしね」
「小池さんの服は、可愛さの中にも大人のフェミニンが漂ってて、ただの子供っぽいピンクじゃない、ミステリアスさがいいですよね」
「ありがと。今年のテーマは、『Misty Pink』にゴシックなイメージを加えて、中世っぽくしてみたのよ」
「そんな感じですね。レースとかフリルの使い方がとってもゴージャスで、お姫さまみたいで素敵です」
「ふふ。去年のネタをちょっと持ち越したんだけどね」
「去年は、すみませんでした」
「あ。いいのよ、もう。みっこちゃんは去年、モデル休業してたんでしょ? どうしてなの?」
小池さんは作業をしながら、さりげなくそんな質問をしたけど、端でそれを聞いていたわたしは、ちょっとドキリとした。みっこはなんて答えるんだろ?
しかし彼女は、口のはしに笑みを浮かべながら、あっさりとした口調で答えた。
「去年は失恋中で、『もうモデルなんてやらない』って、ふてくされてたんですよ」
「へぇ〜? みっこちゃんでも、失恋なんてするんだ」
「ええ。あたしって、わがままで扱いにくい性格だから、もてないんですよね〜」
「今、彼氏いないの?」
「募集中です。だれかいい人、いませんか?」
「あはは。わたしと同じね。まあ独り身同士、仲良くやりましょ!」

小池さんはみっこの恋話を聞いて、愉快そうに笑った。
そうやって、さらりと言えるみっこを見ていると,なんだか安心してしまう。
去年はあんなに引きずっていた、藍沢氏への恋心も、みっこにはもう『思い出』になってしまったんだろうな。

「よしっ。こんなもんかな。ちょっと回ってみて」
小池さんは、仮縫いしていたレースの糸をハサミで切ると、ポンとみっこの背中をたたく。
みっこはクルリと回る。シーチングの生成りのトワレは重くて、のっそりと広がるだけだった。
「うん。いいわよ。じゃあ、待ち針が刺さってるから、怪我しないように脱いでね」
小池さんは注意深くドレスを脱ぐみっこを手伝い、補正と仮縫いの終わったトワレのドレスを、トルソーに着せる。

そこまでやって『ふぅ』とため息つき、小池さんはわたしの持ってきたクッキーをつまみながら、ようやく緊張から解き放たれたようなゆったりした表情で、みっこに言った。
「お疲れさま。今日はだいぶはかどったわね」
「お疲れさまでした。小池さんはこのあと裁断に入るんでしょ」
「まあね。今日も午前様かなぁ」
「大変ですけど、頑張って下さい」
「そう言えばみっこちゃんも、この衣装合わせのあと、夜はアリーナでリハでしょ? ステージの方も大変そうね」
「そんなことないですよ。楽しいです」
みっこは自分の服に着替えながら答えた。
「それにしても今回のショーは、面倒な演出考えたわね〜。そりゃ、派手でいいでしょうけど。モデルさんや裏方さんの負担も気遣ってほしかったわね。みっこちゃん、もうダンスの振りは覚えた?」
「バッチリですよ。期待してて下さい」
「さすがね〜。みっこちゃんって、小さい頃からバレエやってたんでしょ」
「でも今回のダンスは、バレエとは全然違うんですよ。手の振りとかが独特で、最初はちょっと戸惑いました。なんでも元は、ゲイのダンスなんですって」
「ゲイか〜。そりゃ本番が楽しみね。わたしたちは衣装製作で修羅場ってるから、リハは見に行けないけど、頑張ってね」
そう言って、小池さんはニコリと微笑んだ。

 

「もうすぐ文化祭かぁ」
衣装合わせが終わり、アリーナでのリハーサルまでは少し時間があったので、わたしとみっこはいつものカフェテリアで、暇をつぶしていた。
みっこは『午後の紅茶』を飲みながら、テーブルに肘をついて、窓の外の紅葉を眺め、感慨深げに言う。

「あれから一年、か…」
「去年、みっこが小池さんのモデル、頑固に断ってから、一年よね」
「…あの頃はあたし『絶対モデルなんかやらない!』って、意地になってたから」
「去年の秋は、ほんとにいろんなことがあったわね〜」
「そうね。あたしにも… さつきにも」
「うん…」
「さつきは去年の今頃、『川島君とはもう会わない』って大騒ぎしてたわね」
「ううっ。それを言わないでよ。恥ずかしいじゃない」
「ふふ。まあ、いいじゃない。今はこうして、川島君とラブラブなんだから」
「ラブラブ、かぁ…」
「なにか、不満でもあるの?」
わたしがため息つくのを見て、みっこは訝しげに訊く。
「う、ううん。別に…」
「そう。ならいいけど…」
「でも、最近は川島君、卒業制作とかで忙しくて、あまりデートできてないの」
「そうなの?」
「うん」
「川島君、もうすぐ卒業だしね。就職活動とかで、忙しいんでしょうね」
「…みたい」
「これからみんな、どうなるのかなぁ…」
みっこはちょっと憂いのある表情で、窓の外の夕暮れを見ながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
「そう言えば、最近はみっこもすっかり忙しくなっちゃって、学校にもあまり出てこなくなったね」
「そうね」
「モデルの仕事、大変なんでしょ?」
「ええ。週に二日くらいは東京に戻ってるし、向こうのアクターズスクールにも通っているし、忙しくって、目が回りそうよ」
「でも、ちゃんと学校に来ないと、卒業できないわよ」
「…ん。そうね」
みっこはそう言いながら、『午後の紅茶』をコクンと一口飲み、なにかの想いに耽るかのように、しばらく黙った。
「実は… そのことであたし、考えてることがあるの」
「なにを?」
「…まだ、話せる段階じゃないけど…」
「いいじゃない。言ってよ」
わたしの言葉に目を伏せながら、みっこは迷うようにつぶやく。
「そう… もう少し自分で考えて、相談したいし… ショーが終わるまでは慌ただしいし、そんなに急ぐことでもないから、文化祭が終わって、ゆっくりしたときに話すね。他にもいろいろ、話したいこと… ううん。話しておかなきゃいけないこともあるし…」
「…話しておかなきゃいけないこと?」
「…ええ」
みっこはそう答えて、視線を窓の外に移す。
釣られてわたしも、外の景色を見ながら考えた。
みっこの『話しておかなきゃいけないこと』って、なんだろ?

窓の外のキャンパスには、色とりどりに着飾った女子大生たちが、行き交っている。
その中で、数人の女の子が黄金色の銀杏の樹の下に立って、なにごとかささやきながら、チラチラとこちらを見ている。
そう言えば最近、そういう女の子が増えたな。

モルディブで撮った、森田美湖のアルディア化粧品サマーキャンペーンCMが、巷(ちまた)で注目を浴び、彼女の出演してるコマーシャルや広告が、ブラウン管や街角、雑誌のページを華やかに飾るようになってくると、学校のみんなのみっこに対する反応も、微妙になってきた。
学校に雑誌のインタビューやカメラマンが来たりすると、女の子たちはみっこのことを、遠くから指さして噂話をし、なかにはサインを求めにやってくる子もいる。
いっしょに講義を受けている女の子たちにも、みっこがモデルをやってることは、すっかり知れ渡ってしまい、今まで気安く話しかけてきていた子が、近寄り難そうに遠巻きにしていたり、話したこともなかった子が、やけに馴れ馴れしく近寄ってきたりと、みっこのまわりもなんだかギクシャクしてきた感じ。

「さつきが羨ましいな」
みっこは『午後の紅茶』を飲み干して、ため息混じりにつぶやいた。
「え? なにが?」
「自分がいちばん好きな人に、好かれてて」
「そう言うのって、なんだかみっこらしくないね」
「そう?」
「だって、みっこのことを好きになってくれる人って、たくさんいるじゃない」
そう言いながら、わたしの脳裏には、藤村さんと川島君の影がかすった。
「だけど、さつきの場合は、だれにためらうことなく、『川島君が好き』って言えるじゃない」
「そっか。みっこはだれにも言わないもんね」
「…怖いの」
「怖い?」
「好きになっちゃいけない人なんだって、わかってるんだけど、もう、理性じゃ抑えられなくて…
なにかのきっかけで、感情が突っ走ってしまったときのことを考えると…」
「最近、その人とは会ったの?」
「…ん」
みっこはしばらく、考えるように口を噤んでいたが、おもむろにうなずいた。だけど、それを否定するかのように、首を振る。
「でも、もう会いたくない」
「ほんとに? それでも会いたいんでしょ?」
「…」
みっこはやっぱり黙っていた。
そのまま、どうにもならないもどかしさを込めるように、『ふう』と、ため息をつく。
「あたしって、バカよね。やっと直樹さんへの想いから抜け出したと思ったら、今度はとんでもない『ぬかるみ』に、足を突っ込んじゃった」
「見込みはないの?」
「ないの…」
そう言ってしばらくして、みっこはつけ足すように言った。
「もしあったとしても、そのときは、相手の女(ひと)を裏切ることになる。それがいちばん悲しい」
「…」

もしかして…
それは、わたしのことを、遠回しに言ってるの?
みっこと川島君がつきあうことは、わたしを裏切ることになるんだって…

そうだとしたら、彼女はどんな気持ちを込めて、それをわたしに話してるんだろう?
彼女はわたしを、いっしょにその『ぬかるみ』に、引きずり込もうとしているの?

まさか… ね。

今までの言動からして、みっこは『その人』のことを、どうこうするつもりは、ないみたい。
だけど、理性じゃ抑えられない、『好き』という感情が、次第に森田美湖の心を強く支配していくのが、切々と伝わってくる。
もし、なにかのきっかけで、みっこの理性の箍(たが)がはずれたりしたら、わたしたちはそれこそまとめて『ぬかるみ』にはまり込んでしまいそう。
だからわたしは、『みっこが好きな人は藤村さん』という希望を、どうしても捨てきれない。
彼女が藤村さんを好きでいる限り,わたしと川島君が直接、みっこの『ぬかるみ』に引きずり込まれることは、ないと思うから。

う〜ん…
いつからわたし、こんな自分勝手な考え方、するようになっちゃったんだろ?
イヤだな。

 そんなとりとめのないことを考えていたとき、さっきから向こうで、みっこを見ながら話していた女の子のグループが、こちらへやってきて、彼女に声をかけてきた。
「森田美湖さんでしょ!? すみません、サインして下さぁい」
「きゃ〜っ! やっぱり近くで見ると、すっごい美人!」
「肌きれい! 睫毛とかも長くて瞳もぱっちりしてて、お人形さんみたい!」
「スタイルいい! 顔も小さいし、髪なんかもつやっつや! やっぱりモデルさんって、わたしたちとは根本的に、人種が違うのね」
「いくらぐらい稼いでいるんですか? 芸能人の知り合いとか、いますか?」
「ファッションショーなんかで着た服って、もらえるんですか? どんなブランドの服、持ってますか?」

そんな質問を浴びせてくる女の子たちに、みっこは絵に描いたような素敵な微笑みを見せながら、丁寧に受け答えしている。
彼女のそういう、『作られた笑顔』って、わたしはもう長いこと見てなかったな。
わたしにとってみっこは、『人種が違う』女の子なんかじゃなく、自分と同じように、恋に傷つき、悩む、ひとりの女の子。だけど『モデル』っていう肩書きが、彼女に特別な存在であるように、求めてしまう。
女の子たちはみんな、憧れと羨望の眼差しでみっこの美貌を見るけれど、彼女の内面を見ようとするわけじゃない。
そういうのって、わたしに理解できるはずもないんだけど、当人にとっては、やっぱり虚しいことかもしれない。

 そんな女の子たちの相手も終わって、リハーサルの時間も近づいたので、わたしたちはカフェテリアをあとにした。

「なんだか、昔とおんなじになっちゃった」
アリーナへ向かう舗道を歩きながら、みっこはふと、そうつぶやくと、ため息をついた。
「昔って?」
「うん…」
みっこは腕を背中にまわし、足元の落葉を見つめながら、わたしを見ずに答える。
「まだ、心を許せる友だちがいなくて、ひとりで気を張って、生きていた頃」
「そっか…」
「どんなにたくさんの人に囲まれていても、あの頃とおんなじように、自分を作っていなきゃいけない」
「『自分を作る』か。有名人は辛いわね」
「そんな言い方、しないで」
「ごめん。でも、なんだかみっこが、遠くなってしまったみたい」
わたしはそう言って、いっしょになってうつむいて歩く。

今、森田美湖が、モデルとして、そして川島君をめぐる、ひとりの女として、わたしの親友から少しずつ、その立場を変えていってるよう気がして、わたしはすごく寂しい想いにかられてきた。
「なに言ってるの!? あたしはすぐ隣にいるじゃない!」
みっこは顔を上げると、わたしの背中をポンとたたいて、自分を鼓舞するかのように、明るく微笑みながら言う。
「ごめんねさつき、愚痴ったりしちゃって。くよくよしてもはじまらないわね。あまり会えなくても、だから会ったときくらい、楽しくやりましょ!」
みっこはそう言って、心のスイッチを切り替えようとする。
そうよね。
彼女の言うように、くよくよ悩んでたって、どんどん落ち込んでしまうだけよね。

「そう言えば、さつきの通っている小説講座のコンクールの発表は、もうすぐなんじゃない? 今度はどんな感じ?」
「そうね。前回はシリアスな恋愛ものを書いたから、今回は趣向を変えて、SFノリの、軽いラブコメ風にしてみたの。前のよりはテンポもよくて、面白いんじゃないかなって思ってるわ」
「ふうん。で、いけそう?」
「今までずっと、最終選考どまりだったから、今回はそれより上が目標なの」
「そうか。川島君はこの前、写真コンテストで金賞とったし、星川センセの所で頑張ったでしょ。次はさつきの番よね」
「そうね」
「だけど川島君、すごいわよね。センセも、『川島君は熱心で、センスも抜群だ』って褒めてたわよ。ただのバイトだったのに、けっこう重要な撮影とか任されたりして、星川先生、川島君をかなり買ってるみたい。このまま頑張れば、川島君、いいカメラマンになるだろな」
みっこの口から、川島君を褒める言葉を聞くのって、なんだか複雑な気持ち。
星川先生もだけど、みっこだって川島君のことを、ずいぶん評価しているみたいだし。
わたしはみっこの川島君への好意と、自分の夢を確実に実現していく川島君に、微妙な感情を覚えながら、言葉に力がこもった。
「写真ならともかく、小説じゃわたし、川島君には絶対負けないんだから」
「へぇ。さつきってけっこう、勝ち気なとこがあるのね」
みっこはそう言って、わたしをからかう。
「…みっこにだって、負けないわ」
「あたし? 大丈夫よ。あたしには文才なんてないし、逆立ちしてもさつきに勝てっこないわ」
「そうじゃなくて…」
「じゃ、なんなの?」
「…」

『川島君を絶対、みっこには渡さない』

わたしはそんなことを言いたかったけど、それはあまりにバカで、挑戦的な言葉だと思って、口にするのをぐっとこらえる。
みっこはそんなわたしを訝しげに見ていたが、ふと、視線をそらして、ぽつりとつぶやいた。
「…さつき」
「なに?」
「あたしたち…」
「?」
「…ずっと、友だちでいようね」
そう言って、みっこは寂しげにわたしを見つめて、繕うように微笑んだ。

わたしはそのときの、憂いに満ちた彼女の瞳を、ずっと忘れられない。

 

 

 金曜の夜は、九州文化センターでの、小説講座の日。
今日の講座では、前回の小説コンクールの発表がある。
わたしはだれよりも早く文化センターに着き、連絡箱に入っている新しい会報に、今回の小説コンクールの結果が載っているのを見て、金賞から順に、目を通した。

 『金  賞        該当者なし
  銀  賞        該当者なし
  銅  賞        該当者なし

  佳  作        松本 妙子
              川島 祐二
              鹿野いつみ

  最終選考に残った人   …    』

真っ先に佳作のなかの『川島祐二』の名前が、わたしの目に飛び込んできた。
だけど、わたしの名前は、佳作はおろか、最終選考にさえ、載っていない。

『わたし、落ちてる… 川島君にも、抜かれた!』

…信じられない。

今度の作品は、前のより、よく書けたつもりだったのに…
川島君のより、よっぽどおもしろいって、思ってたのに…
今まで最終選考にはずっと残っていたから、落ちるわけないって、思っていたのに…

どうして川島君ばかり、夢がかなうの?
どうして川島君ばっかり、自分がやりたい道を、すんなり歩いていくことができるの?

信じられない!

 このショックのおかげで、その日の小説講座の講義は、まったくの上の空だった。
講義が終わって、川島君から『紅茶貴族』に誘われたときも、なにかと理由をつけて、断わってしまった。
だって、わたしは川島君に、小説コンクールで負けたコンプレックスでいっぱいで、こんな気分のまま彼と話をしても、楽しくないに決まっているから。
だけど、いっしょに帰っていると、やっぱりお茶しに寄ろうという話になって、わたしたちは帰り道にあった、適当な喫茶店に入った。

 最悪な喫茶店。
わたしはレモンティを頼んだけど、出てきた紅茶のソーサーは汚れていて、カップには市販のティーパックが入ったまんまになっている。
紅茶もぬるくて香りが抜けてて、安っぽいブレンドの味しかしない。
ウエイトレスは無愛想だし、店内の装飾も支離滅裂で野暮ったく、センスのかけらもない。

「今月の会報の小説コンクールの結果、見た?」
わたしはぬるい紅茶をすすりながら、言うか言うまいか悩んだ挙げ句、ようやく小説コンクールのことを、自分から話題にした。
「ああ。見たよ」
「おめでとう」
「…まさか、ぼくの小説が佳作に入るなんて。きっと審査員のツボにハマったんだろうな」
「はは。そうかもね」
「さつきちゃんは、残念だったな」
わたしはドキリとした。
自分で切り出したものの、今はあんまり、わたしの小説の話題には、触れてほしくない。
「今回のさつきちゃんの小説、読ませてもらっただろ」
「…ええ」
「最近のさつきちゃん、なんだかピリピリしてて、余裕がないよな」
「え?」
「小説にもそれが出てるんじゃないか?
以前みたいな『客観性』っていうか、ちょっと上から全体を眺めている視点っていうか。
そういう、登場人物たちの感情の変化を、客観的に受け止める余裕が、今度の小説にはなかった気がするよ」
「…」
わたしはカップを持つ手が震えた。
どうして川島君から、そんな風に言われなきゃいけないの?
『ピリピリしてる』って、そうさせた原因は、あなたにあるんじゃない。

「もっと余裕を持って、小説書きを楽しめよ」

“カシャン”
わたしは荒々しくカップをソーサーに置いた。紅茶の雫が、あたりに飛び散る。
「なに?! わたしより成績が上になったからって、いきなりそんな批評めいたこと言うわけ?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、どんなわけなの?」
「批評とかじゃなく、ただアドバイスしてるだけだよ」
「川島君からアドバイスとかされなくっても、わかってるわよ」
「でも、今度の作品は、なんだか無理にストーリーを作ってるみたいで、お話しが地に着いてないような印象を受けたよ」
「それは川島君の個人的な感想でしょ?」
「そうかもしれないけど…」
「わたしはわたしなりに、いろんなメッセージを伝えてみたのよ。どんな意味を込めて今回のお話し書いたのか、知りもしないくせに」
わたしがそう反論すると、川島君は少し不機嫌そうに言った。
「それ、審査員や読者みんなに、言ってまわるわけ? 『今回のお話しにはこんな意味を込めたから、理解して下さい』って」
その言葉は、わたしの心の燃え上がった炎に、さらに油を注いだ。
「なに? その上から目線!」
「そうじゃないよ」
「『小説書きを楽しめ』だなんて、そんな気楽なこと言わないでよ! わたしは小説家になりたくて、必死なんだから」
「それはわかるけど…」
「写真のコンテストで金賞とって、小説コンクールでも簡単に佳作をとった川島君に、わかるわけないじゃない」
「そんな風に言うなよ。苦労なんて、人にひけらかすもんじゃないだろ」
「わたしがひけらかしてるって言いたいの?」
「違うよ。ただ、あまり必死になって力が入り過ぎると、いいものなんてできないって言いたいんだよ」
「どうせわたしには、佳作に入るような小説も書けないですよ」
「そんな、いじけるなよ」
「もういい! 帰る。ここの紅茶、まずい!」
わたしはそう言って、勢いよく席を立った。

わたしって最低。
ケンカするつもりなんてないのに、感情のコントロールができず、売り言葉に買い言葉で、つい川島君にくってかかってしまった。

 帰り道でも、ふたりは剣呑な雰囲気だった。
『仲直りしなくちゃ』という気持ちとはうらはらに、わたしはムスッと黙ったまま、機嫌悪そうに歩いていた。
川島君も、そんなわたしをどう扱っていいかわからず、手を焼いている様子。
わたしたちはなにも話さず、電車に乗り、帰りにいつもキスをする夜の公園を通ることもなく、まっすぐわたしの家に向かった。
こんな気持ちのまま、別れてしまいたくない。
わたしは気ばかり焦るけど、どんどん家は近づくだけだった。

「…ごめんな」
石垣の続く家の角を曲がって、わたしの家の門柱の明かりが見えてきた所で、川島君がぽつりと言った。
「ぼくの言い方が悪かったよ。さつきちゃんが真剣に、小説書きに取り組んでるってのは、すごくよくわかってるさ。それに、ぼくの言葉を全部まともに受け止めるってのも」
「…川島君」
「こんな気持ちのままじゃ、あと味悪過ぎて、帰れないよ」
そう言いながら、川島君はわたしの手に指をからめ、つなぐ。なんだか、ほっとするあたたかさ。
「来週末の3日は文化祭だろ? 今年こそはさつきちゃんとたくさん回って、9月に約束したように、あの丘の上のもみの木に行こうな」
そう言いながら、川島君は明るく笑う。

川島君、気持ちの切り替えが早い。
わたしはまだ、さっきまでの会話を引きずって、うじうじと悩んでいるっていうのに、もうこんなに明るく話ができる。なんだか羨ましい。

そう言えばみっこも、こんな風に、自分の感情のコントロールが上手だったな。
いつか、川島君の恋愛相談で不穏な空気になったときも、『ごめん』って先にあやまってくれて、場を取り繕ってくれた。
わたしって、ふたりに対して、いつも甘えてばかり。
いつでも意地を張っちゃって、自分から謝ったりできない。
こんなんじゃ、ほんとにいつか、川島君にも愛想尽かされてしまうわよね。

「…わたしこそ、ごめんね」
わたしは、川島君がからめている指を、ギュッと握り返しながら、つぶやいた。
「わたし、意地っ張りで… 今度の小説コンクールで川島君に負けたのが、とってもショックだったの。プライドがボロボロになっちゃった」
「わかるよ。自分の得意なもので負けるのって、ダメージくらうよな」
「ん。すごい落ち込んじゃった」
川島君は、わたしの肩を抱きながら歩く。
「ぼくだってもう何度も、カメラマンになるのを諦めかけたことがあるよ。小説書きなんて、先の長い仕事じゃないか。一度や二度のつまづきでめげてちゃ、疲れるばかりだよ。地道に書き続けていれば、きっといいことがあるさ。頑張れよ」
「…うん」
「さつきちゃんのこと、好きだよ」
「…ん」

そう言いながら、家の前で別れ際、川島君はわたしをぎゅっと、抱きしめてくれた。
やっぱり川島君、やさしい。
このやさしさは、『本物』だって思える。
彼のこの暖かさがあるから、わたしは頑張っていける気がする。
よかった。
今夜ちゃんと、仲直りができて。
つきあいはじめの頃より、今はいろいろあって、川島君とケンカすることもあるけど、こうやって、お互い相手のことを思いやっていれば、ちゃんとうまくやっていけるわよね。
そう言えば去年、『Moulin Rouge』で、川島君は言ってたな。

『お互いが相手のことを思いやってさえいれば、ターニング・ポイントなんて、来やしないよ』
って。

わたしはその言葉を信じている。
キスのあと、わたしは心の中で、『好き』とつぶやいた。

 

 

 だけどその翌日、小説コンクールのショックも冷めないうちに、まるで追い打ちをかけるように、もっとショックなできごとが起きてしまった。
わたしはこの二日間のことを、きっと一生忘れないだろう。

 その日は土曜日で、講義は午前中だけだったけど、夕方からはアリーナでファッションショーのリハーサルがある予定だったので、わたしは見学に行くつもりにしていた。
みっこは今、東京に戻っているけど、リハーサルの時間に合わせて帰ってくるということだったので、わたしはそれまでカフェテリアで時間を潰すことにして、いちばん窓ぎわのテーブルに席をとって、スナック菓子とジュースをお供に、鞄から文庫本を取り出して読みはじめた。

「…で、やっぱりそうだったのよ。わたし、びっくりしちゃったぁ!」
「すっご〜い! それってゴシップじゃない?」
「そうなの。わたし、あいつとのデートより、そっちの方ばっかり気になってたわ。だってあんなダンドリ男、はじめっから本命じゃなかったし」
「でも、そんな所で森田美湖と遇(あ)うなんて、意外よね〜」

『森田美湖』?

どのくらいそうやって本を読んでいただろう。
『森田美湖』というフレーズが不意に耳に入ってきて、わたしは思わず活字から目を離し、声のした方を振り返った。
少し向こうのテーブルでは、今風の女の子たちが数人、ドリンクを飲みながらたむろっていて、噂話に花を咲かせている。

「ね。ね。なんの話し?」
新しい女の子がやってきて、会話に加わる。
「あ。実はね、わたしこの前のコンパで知り合った男と、長崎にドライブに行ったのよ。そいつはBMWに乗ってて割とお金持ちそうなんだけど、それを鼻にかけてて、クルマの中でも自慢話ばっかりでさ。
長崎で回った観光地も、『るるぶ』かなんかのお勧めコースってのがみえみえなのに、いかにも知ったかぶりでウンチクたれてて、なんかシラけるのよね〜。
食事とかも、お店調べてたんだったら、前もって予約しとけっつーの。おなかすいてるのに、連れてかれた中華レストランは満席で、ず〜っと待たされてさぁ。
わたしが『他の店に行こう』って言うと、いきなりうろたえちゃって、『いちばん美味しいお店の料理を、君に食べさせたいんだよ』なんて、気取った言い訳しちゃってさ。しかもあまり美味しくないし。
きっと、自分の立てたマニュアルが変えられると、不安になるタイプなのね〜。そんな、融通が利かないくせに見栄っ張りな男とのデートなんて、疲れるばっかりで、全然盛り上がんなかったわよ」
「もう〜。あんたの話しはいいからさ」
「あ、そっか」
他の子に突っ込まれ、彼女はちょっと話を区切ると、新しく加わった女の子に向かって、話しはじめた。
「それでね。グラバー園に行ったら、いたのよ。森田美湖が!」
「森田美湖って、最近テレビによく出てるモデルでしょ? この学校の子だって話だけど」
「そうそう! わたしもときどき講義室や学食で見かけるけど、もうほんっと綺麗なのよ! 顔なんてすっごく小さくて、スレンダーで脚が長くって。もう羨ましすぎるわ。さすがモデルやってるだけあって、着こなしもうまくて。あれはふつうの子には、マネできないわね〜」
「え〜? たいしたことないよ。わたしはあまり好きじゃないな。そんなにすごい服着てるわけでもないし、カッコとかいつも地味だし、だいいち、モデルのくせにチビじゃん。それなのに、近くで見るとツンとしてて、『わたしはあなたたちとは違うのよ』って感じで、全然親近感ないし」
「まあ、それはいいから。それで? 森田美湖がグラバー園にいたって?」
「そうなの。それが、カメラマンみたいな男の人といっしょだったのよ。洋館の前で撮影してたから、わたしも思わず『フォーカス』しちゃった」
「ええっ? 見せて見せて!」
「なに? ピンぼけでよくわかんないじゃない」
「これって、なにかのロケかなぁ。でもカメラマンの人、割とカッコよさそう」
「でも、ロケとかだったら、カメラマンがひとりってことないんじゃない?」
「そうよね。ふつう、ヘアメイクさんとかいるよね?」
「でしょ? 駐車場でも見かけたのよ。ほら、クルマに乗るところ」
「小さくってよくわかんないわね〜」
「『フェスティバ』かぁ」

『フェスティバ』!

その言葉にドキリとしたわたしは、思わず視線をそらし、あわててパタンと文庫本を閉じて、席を立った。
立ち上がった拍子に、溶けた氷の入ったコップを引っかけてしまい、水滴がテーブルにほとばしる。

「あ。そういえばあなた、森田美湖と仲いいんじゃなかった? なにか知ってる?」

彼女たちはわたしに気づいて話しかけてきたけど、それを聞こえないふりして、わたしは急いでハンカチでテーブルを拭くと、カフェテリアを飛び出した。
エントランスホールを足早に横切りながら、わたしの胸はドキンドキンと鼓動が速くなり、足も震えて、まともに歩けなくなってくる。

寒気がする。
からだの芯から震える。
歯がカチカチと鳴っている。

わたしは近くのベンチに座り込み、両手でバインダーごと、からだを抱きしめた。

『みっこが『フェスティバ』に乗って、『カメラマンのような男の人』と、長崎で写真を撮っていた』

彼女たちの話から、当然のように導き出されるひとつの事実を、そして、その意味を、わたしは絶対、信じられない!

ううん…

…信じたくない。

わたしはいっさいの思考を停止して、ベンチからフラフラと立ち上がると、機械仕掛けのような足どりで、学校の外に出た。

 

 夕闇が濃くなってきた街角は、帰宅を急ぐサラリーマンや学生で、人通りが多い。
わたしは人ごみに逆らい、向こうからくる人と、時折り激しく肩をぶつけながら、明かりの灯りはじめた繁華街を、ただ歩いていた。

なんでこんなときに、いろんなことが、いっぺんに起こるんだろ。
小説コンクールで川島祐二に抜かれたことだけでも、じゅうぶんショックだったのに、森田美湖が『フェスティバ』に乗って、カメラマンのような男の人と、長崎に行っていたなんて。
その『カメラマンのような男の人』ってのは、もしかして、川島祐二とは違う人かもしれない。
『フェスティバ』だって、そこら辺をたくさん走ってる、ありきたりなクルマ。
それは彼女たちにひと言、『写真見せて』って言えば、わかったこと。
だけど、そんなこと、できるわけない。
わたしは真実を知るのが、怖い。
ほんとのことを、目の前に突きつけられるのが、怖い。
たとえ、99.9%、写真に写っていたのが、森田美湖と川島祐二だったとしても、残りの0.1%にすがっていたい。

なんだかみじめ。
どうしてわたしばかり、こんな辛い想いをしなきゃいけないんだろ。

『さつきちゃんのこと、好きだよ』
って言ってくれた、川島君の言葉は、嘘なの?

『ずっと友だちでいようね』
って言ってたみっこの言葉も、嘘だったの?

そんな口当たりのいい言葉の裏で、ふたりはわたしにないしょで、会っていたっていうの?
わたしの不安な気持ちを思いやってもくれず、どうしてふたりで会ったりできるの?
わたしになにも言わず、ふたりで会って、いったいなにをしているの?

ううん。
脇役はもう、わたしの方なのかも。

ふたつの気持ち。
ふたつの心。
ふたつのできごと。
それらは互いに重なりあい、反発しあって、わたしの心をグルグルまわる。

それは、ダブル・ゲーム。

わたし…
川島祐二や森田美湖に、もう会えない。
会いたくない。
ふたりに対して、こんなにも気持ちがすさんでいる。
ふたりの顔を見ると、わたし、なにを言い出すかわからない。

わたしはなんとかして、自分の気持ちを切り替えたかった。
だけどそんな理性とはうらはらに、わたしの感情は暴走して、次から次に、よくないこと、悲観的なことばかり考えていく。

『なんとかしてよ!』

わたしは心の中で叫んだ。

いったいどうすれば、わたしの心は安らぐんだろう?
今までだったら、川島君の側にいれば、わたしはほんとうに幸せな気持ちになれた。
みっこの側にいれば、気持ちがはずんで、自分の夢はみんな叶うような気がしてた。
だけど…
今だけは、そのふたりに頼ること、できない。

わたしはいつの間にか、『川島祐二』と『森田美湖』というふたりの人間が、自分の心のなかの大きな部分を占めていたことに、今さらながら気がついた。
今のわたし…
このふたりを抜きにしては、ふつうの自分でいられないようになってる。
そして、それに気がついたときは、そのふたりのこと、失おうとしているときなの?
どうしてそんなに残酷なの?

 

 地下街を行くあてもなく、やみくもに歩いていたわたしは、思いついたように立ち止まり、近くのブティックに飛び込む。
試着もせずに、ワンピースを買った。
続いて本屋に入ると、目についた本をあれこれ、衝動のままに買っていく。
ふらりと寄った喫茶店では、たいして食べたいとも思わないケーキセットを注文して、一気に食べてしまった。
だけど、どんなことをしても、もう気持ちを切り替えることなんて、できない。

「川島君に、みっこに、いてほしいのに…」

人ごみを避けた地下街の、薄暗い階段の陰で、わたしは買ったばかりのワンピースの紙袋を抱きしめて、そうつぶやき、うつむいた。
涙がぼろぼろとこぼれて、紙の包みにしみをつくった。

 

“カーン カーン カーン”

 いったいどのくらい、そうしていたんだろう。
わたしは時計の鐘の音で、ハッと我に返った。
ふと目を上げると、向こうに見えるインフォメーションの仕掛け時計の針が、8時を差していて、可愛らしい人形たちが、『皇帝円舞曲』を踊っている。
泣いたあとの目には、人形のダンスはぼやけて見えて、まるで夢のなかで誘(いざな)う、小人みたい。
わたしは人形の踊りに釣られるように、フラフラと、仕掛け時計の方に歩いていった。

『ここは…』

そう。
それは去年の秋、みっこといっしょに眺めた、仕掛け時計だった。
あのときわたしは、川島君との別れを覚悟して、みっこにここまで来てもらったんだっけ。
ふと、隣にみっこがいるような錯覚がよぎる。
わたしを元気づけてくれた、森田美湖が…

わたしは無意識のうちに、近くの電話ボックスの扉を開ける。
この電話ボックスも…
去年、川島君に電話をかけた場所だ。
わたしは、過去の幻影に背中を押されるかのように、公衆電話の受話器を上げて、テレフォンカードを差し込み、プッシュホンのダイヤルを押していた。
もうすっかり、指が覚えてしまった、川島祐二の家のナンバー。

RRRRR… RRRRR… RRRRR… RRRRR… RRR…

5回目のコールで、受話器を上げる音がして、電話がつながった。

「はい、川島です」
少し低い、すっかり耳に馴染んだ愛しい声が、受話器の電気を通して、くぐもった音で響いてくる。
わたしは少しの沈黙のあと、ため息のように言う。

「…川島君?」
「さつきちゃん?」
「ごめんね。こんな夜に電話して」
「こんなって。まだ8時だよ」
「…そっか。なんだか一日が、とても長かったから…」
「どうしたんだい? なにかあったのか?」
「ん… ちょっと…」
「言ってみてよ」
「なんでもない」
「そんなこと、ないだろ?」
「大丈夫」
「ぼくに言えないこと?」
「…」
「もしもし?」
「…」
「さつきちゃん?」
「…」
「どうしたんだ?」
「…」
「さつきちゃん?! なにか言ってくれよ」
「…川島君」
「なに?」
「…みっこと、長崎に… 行った?」
「…」

少しの沈黙のあと、川島祐二はひとこと、答えた。

「行ったよ」

END

12th Jan. 2012


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