「若葉が綺麗ね」
逆光に透けて、目にしみるように鮮やかな浅緑色の木立を眺めながら、森田美湖がひとりごとのようにつぶやく。
駅のホームで、わたしたちはぼんやりと待っていた。
ホームにそよぐ風が、ふたりの髪をさらう。
若葉の萌えたつ匂いがかすかに薫り、陽射しはポカポカと暖かい。
もうすぐ5月だものね。
みっこはハイウエストの丈の長い、萌葱(もえぎ)色のキュロットスカートに、純白のブラウス。
手に持ったつばの広いカンカン帽と、古ぼけた大きな皮の鞄が、いかにも『高原への泊まり旅行』って雰囲気を醸しだしている。
「一番線、まもなく、別府行き特急、『ゆふいんの森』号が、入ります」
ホームのアナウンスが、わたしたちの乗る列車の名前を告げる。
わたし、この瞬間が、好き。
『これから旅に出るんだ!』って実感がわいてきて、心もウキウキしてくる。
「わぁ。これが『ゆふいんの森』かぁ。なかなかカッコいいわね〜」
ホームに滑り込んできたそのディーゼル特急は、先頭に金のエンブレムがついていて、深緑色の背の高いヨーロッパ風。
みっこは嬉しそうに、列車に向けて何枚か、コンパクトカメラのシャッターを切った。
列車がわたしたちの前を通り過ぎる。モワッと渦を巻く熱気と風。鼻をつく石油の匂い。
『ゆふいんの森』は車輪を軋ませて、ゆっくりとスピードを落とした。
「湯布院に行くには、今はこの特急がいちばん『トレンディ』なのよ」
「みっこって東京人のくせに、どうしてわたしより詳しいの?」
「『るるぶ』に載ってたのよ。あたし列車に乗るの、けっこう好きなんだ。それに湯布院温泉と、その近くの黒川温泉は、今いちばん人気がある観光スポットなの。あたしも、湯布院には行ってみたいなって思ってて、チェックしていたの。だからさつきと行けて、嬉しいわ」
「みっこってけっこうミーハーね」
「ふふ。さ、乗ろ!」
出発のベルが鳴り響き、『ゆふいんの森』号は汽笛を鳴らすと、ディーゼルのエンジン音をいっそう高めて、ゆっくりとホームを離れていった。
「みっこにはディスコだとかモルディブだとか、いろんな所に連れて行ってもらったから,たまにはわたしたちで、どこかに案内しようよ」
わたしが川島君にそう言いだしたのは、モルディブから帰ってしばらくして。桜の花がようやくほころびかけた頃だった。
「そうだな。森田さんにはいろいろお世話になったし」
「どこがいいかな?」
「彼女、東京の人だろ? だったらこちらの有名な観光地とかがいいんじゃないかな? 季節もあったかくなっていくし、高原とかどうかな? 湯布院に行って、九重高原のペンションに泊まるくらいが、お手頃だと思うけど」
「そうね。九重は温泉も多いんでしょ?」
「温泉に入るのかい? 『おやじギャル』みたいだな」
「え? 川島君、温泉きらい?」
「ぼくは本物のオヤジだから、大好きさ」
そうやってふたりの意見がまとまり、みっこを誘ったのは、桜の花が真っ盛りの、春休みの終わり頃。
「ゴールデンウィーク前の、日曜日をはずした平日で、お互いたいした授業がない日に行こうよ」
「いいわね。でも、まじめなさつきが、そんなこと言うなんて思わなかったわ。2回生になって、学校にも慣れたってことね」
「あは… やっぱり人が多いのってイヤじゃない」
「湯布院と九重か… 三人で行くの?」
「そうよ。みっこが誘いたい人がいるんなら、それでもいいけど」
「そういうのはないけど… ちょっと辛いかなぁ」
みっこは少し躊躇(ためら)っている様子。
「え? あまり気がすすまない?」
「そうじゃなくって…」
わたしの言葉に、彼女は反射的にかぶりを振り、その理由(わけ)を言った。
「とっても嬉しいんだけど。あたし… さつきと川島君の邪魔にならないかなぁって、思って」
「なに言ってるの? 邪魔なら誘わないわよ… っていうか、みっこのために計画したんだから」
「ふふ… ありがと、誘ってくれて。とっても嬉しい」
そう言って、みっこは口もとをほころばせる。それから彼女は、思いついたように言った。
「それならあたし、『ゆふいんの森』に乗りたいなぁ」
「なに? それ」
「リゾート・エクスプレスよ」
『ゆふいんの森』号は、ヨーロッパの優等列車みたいなリッチな気分の味わえる、素敵な内装の特急列車。
車内は木目調を基本にした落ち着いた配色で、列車なのに床が木製のフローリングってのが、おもしろい。
車両の連結部分は橋みたいになっていてユニークだし、軽食や甘味が食べられるビュッフェもあるし、車内の所々にはギャラリーもあって、沿線の名物や絵画なんかを飾っていて、列車というよりは、まるで豪華なホテルの中にいるみたい。
車窓の外は、ビル街から次第に田んぼが多くなっていき、気がつくと列車は、筑後平野の真ん中をひた走っていた。左前方には耳納(みのう)連山が見える。
久留米からは九州を横断する線路に乗り換え、耳納の山々を右手に眺めながら、『ゆふいんの森』号は田園風景の中を走る。
列車が筑後川に沿って走るようになると、左右の山は次第に迫ってくる。『ゆふいんの森』号は山岳地方に入り、狭い山あいを縫うように走っていった。
「見て見てさつき!」
みっこは車窓を流れる景色を指差す。
「あの山、形が変わってる。山の周辺が切り立ってて、山頂が平らで、なんだかホールケーキみたい」
「ほんとね〜。大きな切り株にも見えるわ。なんて言う山なんだろ?」
「あれは『切株山』と申します。『メーサ』という種類の山で、別名『テーブルマウンテン』とも申します。阿蘇山や久住山から流れ出した溶岩台地の周辺部が浸食されて、固い岩盤だけが取り残され、円錐状の台地になったものでございます」
ビュッフェでお団子セットを食べながら、窓の外の景色を見ていたわたしたちに、素敵なキャビンアテンダントの制服を着た女性が、やさしくガイドして下さった。
列車に揺られて2時間ちょっと。
大きな弧を描いて列車がカーブしていき、目の前に大きな由布岳が見えてくると、車内アナウンスで山の説明が流れた。
「由布岳は別名『豊後富士』とも言われ、標高1,583m。古来より信仰の対称として崇められてきた山で、『古事記』や『豊後国風土記』にも、その名が記されています。宇奈岐日女神社の祭神であり、山岳仏教も栄え、新日本百名山に選定されている名山です」
そんな由布岳を左手に見ながら、ちょうど12時に、列車は由布院駅のホームに滑り込んだ。
『ゆふいんの森』号をあとにして、木造のアーティスティックな駅舎の改札を出ると、川島君がわたしたちを迎えてくれた。
「こんにちは。列車の旅はどうだった?」
「あ。川島君。やっぱり豪華なリゾート・エキスプレスは、気分よかったわよ」
「ごめんなさい川島君。あたしのわがまま、聞いてくれて」
みっこは川島君に、素敵な笑顔を向けてあやまる。みっことわたしが列車に乗ってきたので、川島君はそのあとの行程の都合で、ひとりで湯布院までクルマを運転してきて、待っててくれたってわけ。
「森田さんのわがままなら、もう慣れたよ」
「え〜? あたし川島君には、まだ、ワガママ言った覚えないけどな〜」
「『まだ』ってのが引っかかるな」
「だってまだ、猫かぶってるもの」
「あははは。その猫のかぶりものを取ったときが怖いな。さあ、行こう」
由布院駅で落ちあったわたしたちを、川島君は駅前に止めてある、赤いクルマのところに案内した。
「『フェスティバ』ね。しかもキャンバストップつき。あたしこのクルマ、可愛くて好き」
みっこはそう言って、嬉しそうに微笑む。
「姉さんと共同で買ったんだ。休みの日には交互で使う約束でね」
「どうして赤にしたの?」
みっこは川島君に訊いた。
「うちの姉、赤が大好きでさ。ぼくは紺色にしたかったけど、押し切られちゃったんだよ」
「可愛いわよ、赤。特にこの『葉っぱマーク』がアクセントきいてて」
そう言いながらみっこは、ボンネットにつけている初心者マークを、指ではじいて茶化す。
「森田さんの『猫っかぶり』は、時々噛みついてくるな〜」
「甘噛みよ。可愛いもんでしょ」
みっこはまったく悪びれず、そう言ってにこやかに微笑む。
「ははは。さあ、ボチボチ行こう」
川島君はふたりのバッグをクルマに積みながら、ドアを開けてわたしたちを促した。
四方を山に囲まれて、金鱗湖という小さな湖を抱いた湯布院は、こじんまりとした小さな町。
『別府の奥座敷』と言われていて、華美な雰囲気はないものの、しっとりと落ち着いた佇まいで、懐かしい郷土の香りが漂っている。
金鱗湖の回りを散歩したわたしたちは、そのほとりの『亀の井別荘』という囲炉裏のある食事処で、地鶏やいのししの郷土料理を食べ、グレゴリオ聖歌が低いメロディを奏でている、『天井桟敷』という山小屋風の喫茶店で、ココアを飲んだ。
そのあと、湯布院美術館を見たり、馬車に乗って湯布院の町を巡ったりと、わたしたちは湯布院観光を楽しんだ。
川島君は大きな一眼レフカメラをずっと持ち歩き、気に入った景色を撮りながら、ここぞという所でわたしたちの写真も撮ってくれる。あたりまえだけど、みっこはポーズを作るのがうまく、川島君もそんなみっこを撮るのが、楽しそうだった。
3時を回った頃、わたしたちは湯布院を出発し、九重高原へと向かった。
川島君はクルマを走らせながら、屋根のキャンバストップをオープンにする。
クルマの中に春のやわらかな光がいっぱいに射し込み、爽やかな風が流れ込んできた。
「見えてきたよ。あれが九重連山だ」
ハンドルを握っていた川島君は、前方の山並みを指差して言った。
しだいに高原の景色を増してきたドライブウェイは、最後のカーブを抜けると、左右の視界が大きく開け、中腹から白い煙をたなびかせる青紫色の雄大な山々が、わたしたちのはるか彼方に広がった。
「山は紅葉してますし、すすきの穂波は白いのですけれど、私は高原にやわらかい紫がただよっている様に感じられた。私は信濃の高原くらいしか知りませんけど、この飯田高原は多くの人も言うように本当にロマンティックななつかしさです。やわらかくて明るくてそしてはるばるという思いをさせます」
「なあに? それ」
わたしがそう暗唱するのを聞いて、みっこは首をかしげる。
「川端康成の『続・千羽鶴』の、九重高原についての感想よ。わたしこの小説が好きで何回も読んだから、なんとなく覚えてしまったの」
「お〜! さすが、文学少女さつきちゃん」
「だけど今は春だから紅葉はないし、すすきだってまだ青いわ」
「もうっ。ふたりしてチャチャ入れるんだから」
そんなまったりした会話を乗せて、赤の『フェスティバ』は、滑るようにドライブウェイを抜けていった。
川島君がクルマを着けたのは,『白いピアノ』という看板のかかった、テニスコートとプールのある、映画に出てくるようなアーリーアメリカン調の、真っ白で綺麗なペンションの前。
少し赤味をおびてきた太陽が、ペンションの尖った屋根にかかっている。
「わぁ! 素敵なペンションね」
みっこはカンカン帽を頭の上にかざし、屋根の上の風見鶏をまぶしそうに見上げて言う。
「食事までまだ時間があるし、とりあえずチェックインして、荷物を部屋においてから、九重山の方に行ってみよう」
川島君は、そう予定を決めた。
ペンションでチェックインをすませて、もう一度クルマに乗り込み、九重の長者原というところまで来たときには、陽は西の山並にかかろうとしている頃だった。川島君は山の麓(ふもと)の広い駐車場に,クルマを止める。
「この高原は、ちょうどちりそめね」
クルマから降りたわたしたちの足元に、ひらひらと桜の花びらが舞い降りる。
季節の遅い高原の桜は、ちょうど盛りをすぎた頃で、淡い桃色の花びらが、澄みきった風にあおられて、霧のように空に舞っていた。
「広い草原ね。サイロとかあって、なんだか北海道みたいな景色」
みっこは九重連山の麓に広がる、青々とした草原を見渡しながら言う。
「『森の観察コース』だって。ちょっと歩いてみようか」
川島君は、そびえ立った九重連山の方を向いている標識を見ながら、わたしたちを誘った。
草原を抜けると、『森の観察コース』は、麓のうっそうとした森へと入っていく。
森の中はとっても静かで、サクサクと枯葉を踏みしめるわたしたちの足音以外、物音ひとつしない。
名前も知らない鳥の羽音が、ときおり静寂を破って響き渡る。
川島君はカメラを構えて、森の景色や木漏れ日が溜まった葉っぱ、苔に覆われて貫禄のついた、大きな樹の幹なんかを撮っている。
道の横を流れる川は、硫黄を含んでいるらしく、茹でた卵のような匂いが、ツンと鼻をつく。
「綺麗なお水ね〜。この匂いって、『温泉に来たんだな〜』って感じ」
みっこは道からはずれて小川へ降りていき、川のほとりにしゃがみこみんで、水に手をひたす。
「冷たくていい気持ち」
そう言ってみっこは、水をすくう。川島君はそんなみっこにレンズを向けて、何枚かシャッターを切った。
「やっぱり森田さんは撮りやすいな」
「ふふ、ありがと。川島君も撮られやすいわよ」
レンズを向けられ、条件反射のように軽くポーズをとったみっこは、道に戻りながら川島君にそう応える。
「そう? プロのモデルさんにそう言ってもらえるのは、嬉しいよ。そのうち、モデルしてくれないかな」
「今してるじゃない?」
「ちゃんとした作品づくりに、ってことだけど… 森田さんはプロだから、無理か」
「あら? 諦め早いわね。オファーがあれば、受けるわよ」
「『オファー』ってのが、なんだかすごそう」
「川島君。みっこのモデル料って、高いのよ」
わたしが口を挟むと、みっこは愉快そうに笑った。
「さつきは友だち料金で、安くするわよ」
「え? ぼくは?」
「川島君は、『友だちの彼氏料金』ってことで、割り増しかな〜?」
「え〜? なんか理不尽だな〜」
「あは、冗談。でも川島君って、どこへ行くにもカメラを離さないのね」
「まあね。写真はぼくの日記代わりだから」
「男の人って、なにかに熱中したら子どもみたいなのね。なんだかカワイイ」
「男なんて、一生子どもだよ」
みっこの冷やかしに、川島君は頬を赤らめて応えた。
「川島君は、なにを撮るのがいちばん好きなの?」
みっこの問いに、川島君は少し考えて答える。
「景色も好きだけど、やっぱり人物かなぁ。だけど人物はポーズとかライティングが難しくてね」
「バカねぇ」
「え?」
「そういうときは、『さつきちゃんを撮るのがいちばん好き』って答えるものよ」
みっこは笑いながらそう言って、川島君をからかう。
「そうかぁ〜。あまりにもあたりまえ過ぎて、そう言うの忘れてたよ」
川島君はフォローする。
む。ちょっとわざとらしいんじゃない? わたしはちょっとむくれて言う。
「そんな、見え見えの手に乗るわたしじゃないですよ〜」
「あ〜あ、川島君。さつきを怒らせちゃった。あとで美味しいものでも食べさせて、ご機嫌とってあげなきゃね」
「さつきちゃんは食べ物で釣れるから、いいよな」
「んもぅ。当たってるだけに悔しいじゃない」
「ペンションに戻ったらすぐに夕食だよ。豊後牛のステーキが出たら、さつきちゃんに少し分けてあげるよ」
「ん〜… まあ、許してあげるわよ」
「よかったわね。川島君」
そんな、なんでもないような会話を交わしながら、わたしたちは森の中をつらつらと歩く。
30分くらいで『森の観察コース』は終わり、日も暮れたので、わたしたちはペンションへ引き返した。
部屋で落ち着くひまもなく、わたしたちはすぐに食堂に降りていき,テーブルについた。
今日は平日というのもあって、セッティングしてあるテーブルは、わたしたちの他にふたつしかない。わたしたちと同じ年齢くらいの女の子4人のグループと、恋人同士らしい若いカップルが、それぞれのテーブルにやってきて、食堂は少し賑やかになった。
「コンソメと馬鈴薯のヴィシソワーズです」
口髭を生やしたペンションのオーナー兼シェフらしい人が、涼しげなガラスのスープ皿を持ってきて、ディナーがはじまった。
ヴィシソワーズは、ジャガイモの歯触りがわずかに残っていて、さっぱりして美味しいし、大分名産のカボスで酸味を整えたサラダも、野菜がしゃっきりしていて食欲をそそる。
脂が勢いよくはじける音を立てて運ばれてきた、豊後牛のステーキは、ワイルドだったけど、とってもやわらかくってジューシィで、旨味がある。川島君の分を一切れもらって、さらに満足(笑)。
食後のデザートのアイスクリームは、ハーブが入っていて爽やか。チーズケーキもまったりとコクがあって、ディナーの最後を飾るのにふさわしかった。
「とってもおいしかった!」
みっこは満足そうに、エスプレッソのデミタスカップを、口もとに運びながら微笑んだ。
モルディブでは毎日がいろんなできごとの連続で、めまぐるしくて慌ただしかったけど、今度の旅行はなんだかとってものどかで、久し振りにゆっくりできた気がする。
みっこはコーヒーを飲みながら室内を見渡していたが、隣のリビングルームを見て、目を輝かせた。
「グランドピアノがあるわ! しかも白。ペンションの名前のとおりね」
みっこの言葉でリビングルームの方を見ると、確かに部屋の窓際には、白いグランドピアノが置いてある。
「そう言えばみっこは、『ピアノを弾くのが趣味』って言ってたわね」
「ええ。うちにもあったでしょ。『グラビノーバ』だけどね。でも電子ピアノより、やっぱりグランドピアノの方が響きがよくって、弾いててご機嫌よね」
「わたし、みっこのピアノ聴いてみたいな」
「最近あまり弾いてないからな〜… 指がちゃんと動かないかも」
「ぼくもピアノ曲は大好きなんだ。特にショパンとかドビュッシーとか。弾けるんだったら聴かせてよ」
「川島君… そうなんだ」
「どうぞ。弾いていいですよ」
お皿を下げにきたオーナーさんが、親しげにみっこに微笑み、そう言ってくれた。
「え? ありがとうございます。じゃあ…」
みっこはそう言って席を立ち、グランドピアノのトップボードを開けると、鍵盤の前の椅子に座って、高さを調節する。わたしたちも食事を終えて、ピアノの回りのソファーに腰をおろした。
“ポロンポロン♪…”
少し指を慣らして、みっこが奏ではじめた曲は、有名なショパンのノクターン第2番変ホ長調。
…うまい!
いつかみっこは、『好きなのはピアノを弾くことと、踊ること』って言ってたけど、ダンスと同じように、ピアノもとっても上手。
テレビなんかで、猫背でピアノを弾いている人をよく見るけど、みっこは姿勢よくピンと背筋を伸ばして、流れるように鍵盤を撫でていく。彼女の奏でるショパンの甘い旋律は、わたしの耳を心地よく揺さぶった。
ショパンの『ノクターン』の次は『別れの曲』。
この曲は切ないくらいに美しく、涙が出てきそうになる。わたしは思わず、目頭をハンカチで押さえた。
同じくショパンの『幻想即興曲』に、ドビュッシーの『月の光』や『亜麻色の髪の乙女』と、三・四曲続けさまに弾いているうちに、リビングルームには他のお客さんも集まってきて、リトル・コンサートのようになった。
みっこは久し振りにグランドピアノが弾けたのがよっぽど嬉しいらしく、川島君が好きだと言っていたドビュッシーやショパンをはじめ、次から次にいろんな曲を披露する。わたしたちも、みっこの奏でるよどみない綺麗な旋律に、聴き入っていた。
「上手ですねぇ」
「もしかして、音大の方ですか?」
「これだけ暗譜してるなんて、すごいなぁ」
みっこの演奏を口々に褒めながら、オーナーさんをはじめとした、ペンションのスタッフの人たちが、それぞれヴァイオリンやヴィオラ、チェロ、コントラバスを抱えて、リビングルームへやってきた。
「いつも9時からここで、『白いピアノ弦楽四重奏団』のアンサンブルを聴いてもらっているんですよ」
オーナーさんがわたしたちに説明する。
「じゃあ、あたしは…」
みっこはそう言って、ピアノを空けようとしたが、オーナーさんがそれを遮った。
「せっかくなので、お客さんもぜひ、いっしょにいかがです?」
「え? でも… あたし、アンサンブルはほとんどしたことがないから…」
「シューベルトの『ます』をやろうと思うんです。わたしたちがピアノに合わせますから、あなたのペースで弾いてみてください」
「でも…」
「曲は知ってますか?」
「ええ… だいたいは」
躊躇っているみっこに、川島君が言う。
「いいじゃないか。森田さんの『ます』、聴いてみたいよ」
「…ん。じゃあみなさん。よろしくお願いします」
川島君のエールに勇気づけられたのか、みっこは『白いピアノ弦楽四重奏団』のスタッフにお辞儀をし、わたしたちや他のリスナーにもペコリと頭を下げると、ピアノの前に座りなおした。
「お客さん、お名前を伺ってもいいですか?」
ヴァイオリンを肩に当てて、調弦をしながら、オーナーさんがみっこに訊く。
「森田美湖です」
「ありがとう」
そうお礼を言うと、オーナーさんはわたしたちに向き直る。
「はじめまして。『白いピアノ弦楽四重奏団プラス、森田美湖さん』です。それでははじめます。曲はシューベルトのピアノ五重奏曲、『ます』」
そう言ってオーナーが一礼すると、リビングルームのお客さんから、パラパラと拍手がおこった。
“ジャーン ジャンジャン♪…”
ピアノと弦楽器が、一斉に曲を奏でる。
みっこは緊張した面持ちで、楽譜を追っていた。
だけど、第一楽章が終わる頃には要領を掴んだのか、彼女の表情もやわらぎ、弦楽器との呼吸もなめらかになって、リズムも軽やかになってきた感じ。
流れるようなピアノの旋律と、ヴァイオリンの弦の歌うような響きが、快いせせらぎを元気よく泳ぎ、あるときはゆったりとしたよどみに沈み、水面にきらきらと銀色の鱗を反射させながら跳ねまわる、ますの姿を思い浮かばせる。
『白いピアノ弦楽四重奏団』の演奏もまろやかで、見事なハーモニー。みっこのピアノを引き立てていき、みっこは気持ちよさそうな表情で、鍵盤の上の『ます』を泳がせていった。
「みっこ、とってもよかったわよ! コンサート聴いたみたいで、感動しちゃった」
「ありがとう。ピアニストになるには全然練習不足だけどね」
「まったく。森田さんはいろんな特技を披露してくれるなぁ」
「そんな… 恥ずかしいわ」
「いや。ほんとすごいよ、森田さんは」
「もう。川島君ったら… 『みっこ』でいいわよ」
部屋に戻ったわたしたちは、しばらく音楽の話で盛り上がった。
「そろそろお風呂に入ろうか」
「そうね」
夜も更けてきて、会話もひと段落ついた頃、みっこはそう言って、皮の鞄からお風呂セットを取り出した。わたしも自分の鞄を引っ張り寄せながら、相づちを打つ。
「じゃあ、ぼくはそろそろ自分の部屋に戻るよ。明日は朝食のあと、みんなでテニスしよう。8時に食堂で待ってるから、おやすみ」
わたしたちがお風呂の準備をはじめたのを見て、川島君は明日の予定を決めて立ち上がると、軽くおやすみの挨拶をしてドアを出る。わたしは挨拶を返し、なにげなく川島君を目で追う。
みっこはそんなわたしを見て、ささやいた。
「ほんとは、川島君といっしょにいたいんでしょ?」
「えっ?」
「ふふ。今、そんな目で見てたわよ。『いっしょの部屋で寝たい』って」
「やだ〜。みっこのエッチ」
「そんな意味じゃなくって… まぁ、それもあるけど。あたしはいいから、さつきは彼の部屋に泊まれば?」
「いいよぉ」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないよ」
「ん〜… やっぱり、三人ってのは微妙かな。あたしも早く恋人作らなくちゃね」
みっこはお風呂セットを抱えてペロッと舌を出し、冗談のように言ったけど、その表情は少し寂しそうだった。
『恋人』か…
あれからみっこの恋は、どうなったんだろう?
モルディブからの帰りに、『好きな人が、できちゃったみたい』と告白してから、みっこはその話題をまったく口にしない。
彼女の場合、『訳あり』な恋にはまりそうになっているみたいだから、わたしも迂闊に訊くのがはばかられる。
なんだか複雑。
わたしもみっこの彼氏と4人で、晴れてダブルデートなんてしてみたいけど、そんな日って、来るのかな?
『白いピアノ』の温泉は、大きな窓のある室内浴場と露天風呂があって、野外の露天風呂からは、キラキラとまたたく星空と、真っ黒のシルエットになった九重連山が、よく見える。
そんな温泉につかりながら、わたしたちはずっと、恋話に花を咲かせていた。
「そう言えば、去年の夏にいっしょに海に行ったとき、わたし、みっこには『絶対彼氏がいる』って思ってたんだ。あの頃って、まだみっこのことよく知らなくて、みっこもなかなか打ち解けてくれなかったわよね」
「そうだったわね。あたしも直樹さんとの別れをずっと引きずってて、さつきから『恋人いる?』って訊かれたときも、『心から好きになれる男の人に、出会ったこと、ない』なんて、直樹さんを否定するようなことを、ムキになって言ってた気がするな」
「そのときのみっこ、すっごい厳しい顔してたわよ」
「え〜? やだなぁ」
「なんか、懐かしいわね〜」
「そうね…」
みっこはそう言いながら、湯船につかって、キラキラとまたたく星を見上げて、ポツリとつぶやく。
「人って… どんどん変わっていくものね」
「え?」
「あの頃は、さつきにはまだ彼氏がいなくて、『うぶで純情な子だな〜』って思ってたのに、今じゃさつきは、川島君とブイブイ言わせてるし」
「ブイブイって… そんなんじゃないよぉ」
「あはは。冗談。でもあの頃は、こうやって一年後にいっしょに温泉に入るなんて、思ってなかったわね」
「そうね。今年の夏も、またバカンスに行こうね!」
「ええ。行きたいわね」
シャンプーをして、お風呂から上がって、髪を乾かしている間も、ふたりはずっとそんな話をしていた。
だけどわたしの方から、みっこの今の恋の話題に触れることはしなかったし、みっこも話す気配もなかった。
部屋に戻ってお肌の手入れをしながら、みっこはふと、思い出したように言う。
「ほんとにいいのよ。さつきは川島君のお部屋に泊まっても」
「みっこ、まだそんなこと言ってるの?」
「だって… ふたりに悪いし…」
この子、わたしと川島君に、妙に気を遣ってる気がする。
それは嬉しいことだけど、ちょっと遠慮しすぎているみたいで、『生意気でわがままな小娘』の森田美湖にしては、なんだか不自然な気もする。
「だからいいんだって。このバカンスは、みっこのために計画したんだし。わたし今夜はずっと、みっこといろんな話、していたいのよ」
「そう… ね」
わたしがそう言うと、みっこはようやく安堵したような表情を浮かべ、その夜はもう、川島君とのことを言い出すことはなかった。
翌朝、わたしが目を醒すと、みっこは隣のベッドにはいなかった。
わたしは着替えをすませ、ペンションの庭に出てみる。みっこはハーブがたくさん植えられた花壇の前で、オーナーさんと話をしていたが、わたしが出てくるのを見て、手を振った。
「おはよう、さつき。夕べはよく眠れた?」
「おはようみっこ、早いのね」
「あたし、早起きなのよ」
彼女は真綿の黄色い毛玉のような、可愛いカモミールの花を、両手に抱えている。
「オーナーさんから頂いたのよ。食後にカモミールとレモングラスで、ハーブティを入れて下さるんだって」
「昨日はわたしたちも楽しませてもらったから、そのお礼ですよ」
「ありがとうございます。あたしこそ、いい思い出ができました」
みっこは朝の光のような爽やかな微笑みを浮かべて、オーナーさんにお礼を言う。
「そう言って頂けて、わたしたちも嬉しいですよ」
オーナーさんは愛想よく笑う。向こうの花壇から、ハーブをいっぱい摘んで戻ってきた奥さんらしい人も、みっこに微笑んで言った。
「森田さんのピアノを聴いて、『わたしももっと練習しなきゃ』って思いましたよ。またぜひ泊まりにいらして、ピアノを聴かせて下さいね」
「ありがとうございます。奥さんのチェロもとっても素敵で、オーナーさんとの息もぴったりで、楽しかったです」
花が咲くようなみっこの笑顔につられるように、オーナーご夫婦もにっこり微笑む。
みっこてほんとに、人の心を掴むのがじょうず。
快晴だった昨日と違って、今日はどんよりと雲の多い、すっきりしないお天気で、九重連山もその頂きは、低くたれ込めた雲に覆われていた。
朝食が終わって、爽やかなハーブティをサービスして頂いたあと、わたしたちはペンションのテニスコートに出た。
コートには昨夜泊まっていたカップルが、一足先に出ていて、プレイしている。
「わたしテニスなんて、川島君とつきあいはじめてから、はじめてやったのよ。みっこはテニスできる?」
「ん。ちょっとくらいならね」
「ほんとにちょっと? みっこって、たいていのことはなんでもこなしちゃうから」
「そんなことないわよ」
淡いピンクのショートパンツに、ウイグル綿のポロシャツを合わせたテニスルックのみっこは、髪をツーテールに結び、コート脇のベンチで、ラケットの編み目を丁寧につくろいながら答える。その仕草がなんだかキマっていて、かなりやれそうな気がした。
先にコートに出ていた川島君がラケットを振って、わたしたちを促す。
「乱打しよう」
わたしとみっこは同じサイドのコートに入り、川島君はネットをはさんで、わたしたちに向かう。
テニスは趣味で時々やっているという川島君は、なかなか上手で、わたしたちを相手に、交互にボールを返していった。
「さつきちゃ〜ん、もうちょっといい球返してよ。ぼくはふたりも相手してるんだからね!」
「しかたないじゃない。ヘタなんだもん」
わたしの返球があちこちに反れるのを追いかけながら、川島君は笑って言うけど、テニスが下手なわたしには、あまり気分のいい言葉じゃない。
わたしはちょっとむくれながら、チラリと隣のみっこを見た。
わたしの予感どおり、みっこはテニスの腕も、なかなかのもの。
小気味いいフットワークで、素早く球に追いついて、腕の伸びた綺麗なフォームで、ラケットを振り抜き、川島君の足元に正確にリターンしている。
コートを駆け回る長い脚が躍動感があって、健康的なお色気を発している。
『わたしは今、川島君に、みっこと較べられているんだ』
ラケットを握りながら、わたしは漠然とそう感じていた。
わたしが短足のドタ足で、バタバタとコートの中を走っているのを見て、川島君はどう思っているだろう?
どうひいき目に見たって、みっこの方がカッコいいし、魅かれるに決まっている。
実際、隣のコートでプレイしていたカップルの男性は、さっきからずっとみっこのプレイを、横目で追っている。そのうち彼女がそれに気づいて、彼氏にペシッと平手打ちを食わせてしまった。
そうやって、自分の彼女を放ったらかしてまで、見つめてしまうくらい、みっこって魅力があるんだ。
わたしはとたんに気分が萎えて、走るのをやめた。
「どうしたんだい? さつきちゃん」
そばで跳ねたボールを見送ったわたしを見て、川島君は訝しげに訊ねる。
「うん… ちょっと、疲れちゃって… わたし少し休んでいい?」
そう言ってわたしはコートを出て、ベンチに座った。川島君は一瞬、『どうしようか』という顔をしたが、すぐにみっこを見て言った。
「じゃあ、みっこちゃん。試合しようか? ワンセット・マッチ」
「いいけど…」
そう答えながら、みっこはわたしをチラッと振り返る。
この子はけっこう律儀なところがあるから、わたしを放ったらかして、自分が川島君と楽しむのは、気が引けているのかもしれない。
ほんとはわたしも、川島君とみっこが楽しそうにテニスをするのを見るのは、あまりいい気はしないけど、今回の旅行はみっこのためなので、わがままばかりも言ってられない。
「わかった。じゃ、わたし審判するね!」
努めて明るく振る舞い、わたしはジャッジ台に上がった。
みっこと川島君は実力が伯仲していて、なかなかいい試合を展開した。
パワーはもちろん川島君の方が上だけど、みっこは正確なストロークをコーナーに散らして、川島君をさんざん走らせ、ミスを誘う。試合は6-4で、かろうじて川島君が勝った。
「いやぁ。みっこちゃんはうまいよ。もうこっちは走らされてばかりでクタクタ。汗びっしょりだよ」
「川島君こそ、やっぱり男の人ね。サーブなんか速くて、とても手が出なかったわ」
コートをはさんでふたりは握手し、ベンチに戻ってタオルで汗を拭った。
“ポツ ポツ…”
そのとき、厚く立ちこめた薄暗い雲から、とうとう雨粒が落ちはじめてきた。
「降りだしたな。しかたない。ペンションに戻ろう」
川島君はそう言いながら、ベンチに出していたタオルやラケットを、急いでバッグにしまう。雨はどんどん勢いを増していき、霧のように白く、あたりの景色を包み込んでいった。
こうして残念なことに、わたしたちのバカンスの後半は、ペンションの中で過ごすことになった。
「なんか残念ね〜。せっかくのバカンスなのに」
「まあ、いいわよ。湯布院とか九重とか、見たかったところは昨日行ったし、雨の九重を温泉から眺めるなんてのも、風情があっていいんじゃない?」
リビングルームのソファーに座って、窓の外の雨景色を見ているわたしに、みっこはそう言い、鞄からお風呂セットを取り出す。
「テニスして汗かいちゃったから、温泉につかりたいわ。さつきと川島君も行かない?」
「そうね。行こか」
「混浴かな」
「いいわよ。テニスに勝ったご褒美に、あたしが背中を流してあげる」
冗談を言った川島君に、みっこは笑いながら応えた。
「え? みっこちゃん、冗談だろ?」
「もちろん冗談よ。そんなことしちゃ、さつきに怒られるしね」
「あはは、みっこ。またそんなことを…」
わたしはそう軽く流したけど、ほんのちょっぴり、心に引っかかるものが残った。
『わたしが怒らなかったら、みっこは川島君に、そうしてあげてもいい』
って思ってるのかな、なんて…
雨で気温が下がったせいで、湯船からは白い湯気が立ち上がり,浴室は薄くかすんでいる。
露天風呂は雨が降り込んでいるので、わたしたちは室内浴場の湯船につかった。
九重連山の見える窓は湯気で曇り、遠くの山々は雨にかすんで煙っている。
みっこは脚を湯船につけて窓辺に腰かけ、キュッキュと窓の水滴を拭いて、外の景色を眺めた。
「ほら、見てさつき。昨日あなたが言ってた小説みたいに、高原が薄紫色になってるわよ」
「ほんとね」
わたしもみっこの隣に腰をおろし、いっしょに窓の外を眺めた。シトシトと、霧のように小さな雨粒が窓に打ちつけ、九重の景色を滲ませていく。
「みっこ。今度の旅行は、楽しかった?」
「もちろんよ。どうして?」
「うん… 雨が… 降ったから」
窓の外の、どんよりした景色のように浮かない声で、わたしは答えた。
雨なんかのせいにしてしまったけど、ほんとはわたしの心の中にも、この暗い雨雲みたいな、すっきりしない『なにか』が、立ちこめているような気がした。
テニスをしているときに感じた『もやもや』や、さっきのみっこの言葉が、まだどこかにくすぶっているのかな?
みっこと川島君が親しくしているのを見るのは、わたしにとって、やっぱり愉快なものじゃない。
川島君はいつのまにか、森田美湖のことを『みっこちゃん』と呼ぶようになっている。
そういうのって、川島君のみっこに対する心の距離が、縮まってきたってことじゃない?
昨日と今日、川島君はわたしたちの写真をたくさん撮ってくれたけど、どう見ても、みっこにレンズを向けることが多かった気がする。
そりゃ、美人でスタイルもよくて、モデルをやってるみっこを、川島君が『撮りたい』という気持ちは、わからないことはないけど、『川島君の彼女』として、彼が他の女性にばかりカメラを向けるのって、やっぱり複雑。
しかも、『そのうち、モデルしてほしいな』なんて、みっこを誘うようなことを言ったりして。
みっこも、その言葉に対して、否定することはなかった。それって、みっこが川島君に対して、好意を持ってるってことじゃないかしら。
「わたし… ちょっとのぼせちゃったみたいだから、先に上がるね」
そう言って、わたしはみっこより先に湯船を出た。
カランから冷たい水を出して、二・三度、顔に浴びる。
わたしったら、なに考えてるんだろ。
親友のみっこのことを、そんな風に考えるなんて…
わたしって、心が狭いのかな?
イヤになる。
結局、その日の午後も雨はやむことはなく、しかたなくわたしたちは予定を変えて、少し早めに帰路につくことにした。
みっこのマンションは、帰りのルートからは遠回りになる場所にある。
『家まで送るよ』という川島君の言葉に、『ちょっと寄らなきゃいけない所があるから』と、みっこは遠慮するように言い、市内の大きなターミナルの前で彼女はクルマを降りて、わたしたちと別れた。
家に帰り着き、旅行の片づけがすむと、わたしは机に向かって、おもむろに日記代わりのキャンパスノートを取り出し、ペンをとった。
パラパラとなんとなくページをめくりながら、わたしは今度の旅行のことを…
そしてみっこと川島君のことを考えていた。
彼がはじめて森田美湖に会ったのは、去年の彼女の誕生日。
『Moulin Rouge』へ、ダブルデートで行ったときだった。
あのとき川島君は、みっこのことを『怖い』とか、『見事に親近感がない』とか、ちょっと敬遠しているような感想を言っていた。
あれから5ヶ月弱。
その間に、撮影スタッフの一員としてモルディブに行ったり、今度みたいにいっしょにペンションに泊まったりと、わたしを通してとは言いながらも、川島君とみっこは、少しづつ接近し、親しくなっている。川島君の態度も、みっこに対して、好意的になってきた気がする。
それがイヤってわけじゃない。
川島君がわたしの親友に対して、好意を持ってくれるのは嬉しいんだけど、その『好意』は、『恋』に発展する可能性を秘めた、危ういものかもしれない。
わたしは今日まで、その事実に無頓着だったけど、みっこが不自然なまでに、わたしと川島君に気兼ねするのは、彼女がそういう可能性を、本能的に心配しているからかもしれないな。
わたしは日記をめくる手を止めて、なんとなく電話の受話器を握り、川島君の電話番号を押した。
「もしもし、川島君? 今日はお疲れさま。運転ありがとう」
「どういたしまして。さつきちゃんこそ、帰りはなんだか元気なかったけど、疲れたんじゃない?」
「そんなことない。大丈夫」
「ならいいんだけど。で、どうしたんだ?」
「別に… ただ、声が聞きたかっただけ」
「はは。嬉しいよ」
「川島君。旅行、楽しかった?」
「もちろんだよ」
「写真、どのくらい撮ったの?」
「フィルム5本くらいかな。後半は雨が降ったから、あまり撮れなかったけど」
「そんなに撮ったの?」
「いい被写体がたくさんあったしね」
「みっこって… 撮りがいがあるんじゃない?」
「そりゃあ、彼女はプロのモデルで、勘もいいしポーズもうまいし。つい、撮らされてしまうよな」
「ねえ。みっこのこと… どう思う?」
「どうって?」
「男の人ってみんな、みっこみたいな女の子を、好きになるのかな?」
「どうしたんだい? 急に」
「だって、昨日わたしたちといっしょに、ペンションに泊まっていたカップルとか、女の子たちも、『美人よね』とか『ピアノすっごい上手いよね、あこがれちゃう』とか言ってたし、テニスのときはカップルの男性が、ずっとみっこ見てて、彼女が焼きもちやいてたじゃない」
「ああ。そうだったよな。あのケンカは、ちょっとみっともなかったよな」
「みっこって美人だし、スタイルいいし、ピアノは上手でテニスもできてダンスはプロ級、しかもトップモデルのお嬢さまでしょ。男の人って、そういうのに憧れるんじゃない?」
「そりゃあ、『すごいな』とは思うけど、それと、『好きになる』ってのは、話が別だよ」
「そう?」
「逆に、そこまですごい子だと、たいていの男は引いちゃうんじゃないかな? 『高嶺の花』だって」
「『高嶺の花』か… 芳賀さんも言ってたな」
「もしかして、ぼくがみっこちゃんのこと好きになるとか、そんな風に考えてるわけ?」
「…」
「だから、元気がなかったとか?」
「…う、ん」
「バカだなぁ。ぼくはさつきちゃんが好きなんだから、そんなつまんない心配、しなくていいって」
「ほんとに?」
「ああ。みっこちゃんは確かに魅力的な子だけど、さつきちゃんはぼくにとって、いちばん好きな女の子なんだから」
「わたしのどこが好き?」
「どこって、全部だよ」
「全部?」
「いちいち、口じゃ言えないくらいだよ」
「でも、言って」
「そうだな… やっぱり、根っこが同じってとこかな」
「根っこ?」
「ぼくとさつきちゃんって、生き方の根本の部分が同じような気がするんだよ。だから、話していても共感できるし、さつきちゃんといると、とっても落ち着くんだ」
「うん。それはわたしも感じるけど… 女としては、どうなの?」
「もちろん大好きさ。高校のときに同じクラスになったときは、最初はさつきちゃんの可愛らしさに魅かれてたから」
「そ、そう?」
「ふわふわした髪はいい香りだし、そのくりっとした大きな瞳で見つめられると、クラクラしてくるよ」
「ほんとに?」
「ああ。唇もふっくらしてて、マシュマロみたいで好きだな。肌なんかも白くてすべすべで、触ると気持ちいいし、おっぱいもプルンとしてて大きいし」
「もうっ。やだ!」
「ははは。さつきちゃんが『女として』なんて言うから」
しばらく川島君とそんな他愛のない話をし、わたしは電話を切って、また机に向かい、日記の続きを書く。
そうやって川島君から、『好き』と言葉で告げられるのは、やっぱり嬉しいし、幸せなこと。そして、わたしのことを気遣ってくれる彼の気持ちを、とってもありがたく感じる。
だけど…
どんなに川島君に褒めてもらっても、やっぱりわたしの心には、なにか、すっきりしない雨雲が、片隅にうずくまっている。
わたしには、みっこに勝てるだけの、川島君をもっと惹きつけるだけの、『魅力』ってあるのかな?
もちろんわたしは、みっこが好き。
心の底から、親友だと思っている。
だけど、わたしにとって森田美湖は、いちばん大切な友だちと同時に、いちばん怖い存在になってきているような気がした。
川島君は、わたしのことを『いちばん好きな女の子』と言った。
じゃあ、『二番』や『三番』はいるの?
わたしは川島君にとって、今は『一番』かもしれないけど、いつかはだれかに抜かれたりするの?
『根っこが同じ』って言葉も、わたしはみっこともそう感じているから、結局、川島君とみっこの『根っこ』も、繋がっているってことになるんじゃないの?
「やだ! 思考が思いっきりネガティブになっちゃってる。雨に降られたせいかな」
わたしはひとりごとを言って、気を紛らすようにパタンとキャンパスノートを閉じると、ローボードに置いてあるミニコンポのスイッチを入れ、ベッドに寝転がって、ヘッドフォンを耳にした。
こんな気分のときは、音楽を聴くに限る。
選んだCDは、ショパンのプレリュード、『雨だれ』。
「ショパン… か…」
昨日の夜、ペンションの白いグランドピアノで、みっこが弾いたショパンを思い出す。
シトシトと雨音が淋しげに響く夜、わたしはピアノの旋律に耳を傾けた。
END
8th Oct 2011