まるで12月らしくない、さわやかな朝だった。
昨日までの鉛色の街並の景色は、綺麗にぬぐい去られてしまい、柔らかな日射しの中に、冷たい空気がピンと張りつめて、心が洗われるような、とってもいい気持ち。
そんな土曜日のデートは、私鉄の小さな駅の前で、11時に待ち合わせ。
だけど、今日のデートの相手は川島君じゃなく、森田美湖なんだ。
昨夜のディスコでのできごとは、今でもわたしの心の底に、モヤモヤしたものを残していた。
せっかくのみっこの19歳の誕生日だったのに、わたしはなにもしてあげられなくて、それがたまらなく残念。
だからせめて今日一日は、みっこと楽しく過ごしたい。
わたしはいつまでも、彼女と友だちでいたいもの。
わたしが待ち合わせの駅に着いたときには、もう11時を少し回っていた。
みっこは来ていた。
オーキッドピンクのセーターの上に皮のブルゾンを羽織り、洗いざらしのチャコールグレーのジーンズ。ストレートの髪を頭のうしろでキュッと結んだカジュアルな格好で、いつもの彼女のイメージとはちょっと違ったスタイルだった。
彼女は駅舎の横のテレフォンボックスにもたれかかり、心なしか寂しげな表情。改札を出たわたしは、遠くからみっこに呼びかけた。
「みっこぉ! 待ったぁ?」
駆け寄ったわたしを見て、みっこはぱっと表情が明るくなり、ほがらかに微笑む。
「少しね。でも今日はお天気がいいから、気持ちよかったわ」
「ごめんね。ちょっと買い物してて、遅くなっちゃった」
「なにを買ったの?」
「えへへへ…」
わたしは彼女に、ピンクのリボンのかかった小箱がふたつ入った紙袋を差し出す。みっこは不思議そうに、わたしと紙袋を交互に見た。
「はい。誕生日のプレゼント。わたし昨日は、なにもしてあげられなかったから」
「わぁ! ありがとうさつき。嬉しい!」
彼女はわたしからのプレゼントを胸に抱いて、ニッコリ微笑む。
「あら? このプレゼント。なんだかおいしそうな香りがするわね」
「買ったものだけじゃ物足りない気がして、今朝マドレーヌを焼いて、それも入ってるの」
「わぁ。すごい! とってもいい香りで、おいしそう!」
「よかった。喜んでもらえて」
「マドレーヌ、大好きなの。匂いをかいだら、おなかがすいちゃった」
みっこは気持ちよさそうに目をつぶって、しばらくマドレーヌの香りにひたっていたが,ふと思いついたように瞳を輝かせた。
「ねえ、さつき。今からあたしのうちに来ない?」
「え。みっこのうち? いいの?」
「もちろんよ。このマドレーヌでお茶会しましょ?」
「いいわね! 賛成!」
わたしがそう言うと、みっこは明るくうなずいた。
そう言えばわたしはまだ、みっこの家には行ったことがない。
『ひとり暮らしをしている』という話を彼女から聞いてはいたが、みっこと会うときはいつも外でだったし、今まで特に招待もされなかったので、興味はあったものの、自分から「遊びに行ってもいい?」なんて、ちょっと切り出しにくかったんだ。
「着いたわ」
待ち合わせをした私鉄の駅から、バスで5分。閑静な住宅街の山の手を上がったところに、みっこの住む10階建てくらいのマンションがあった。
バッグから『MIKKO』のネーム入りのキーホルダーがついた鍵を取り出しながら、彼女は煉瓦づくりのマンションのポーチを抜けて、吹き抜けになったエントランスに入っていく。
「すごいじゃない。みっこってこんな所に住んでたの?!』
わたしは思わず興奮して言った。わたしの家の古ぼけた二階建ての日本家屋と違って、とってもお洒落で、高級そうなマンション。
エントランスの横の道路に面した、大きなガラス張りの広い部屋は、プールとダンス・スタジオになっている。その回りを噴水が流れ、煉瓦の外壁にはシックな街灯。
「マンションにプールとかスタジオとかあるなんて、すごいわね〜」
わたしがそう言うと、みっこは自分の部屋のポストをチラリと覗きながら答える。
「1階はカルチャーセンターも兼ねてるのよ。スタジオでも時々、ジャズダンスやエアロビクスをやっているし、マンションの人は管理人さんに言えば、どちらも自由に使えるの」
そう言いながらみっこは、風除け室の横に備えつけられたテンキーの前に立った。
「わ。これって今流行(はやり)の、オートロックじゃない?」
彼女は暗証番号を押しながら言う。
「パパがね…」
「え?」
彼女はドアを開けるとわたしを招き入れ、奥のエレベーターに向かいながら、話を続ける。
「西蘭女子大進学に、あたしの両親が大反対だったってことは、さつきにも話したでしょ」
「うん。覚えてるけど」
「それでママは、『そんなに大学に行きたいのなら、自分のお金で行きなさい。家からは1円も出しません』って言うから、あたしは自分の貯金おろしたり、アルバイトをしたりして、学費や生活費出すつもりにしていたの。だから最初は、学校の寮に入るつもりだったのよ」
「へえ。お母さん厳しい〜。みっこも意地になってたのね」
「そう。だけど実際に、あたしが入学の手続きとか荷造りとかはじめると、ふたりとも慌てちゃって。それでパパが、『四年間もひとり暮らしはいろいろ心配だから』って言って、このマンションを探してくれて、ママに内緒で仕送りもしてくれてるの」
「わぁ〜。優しいお父さんね!」
「ふふ。なんだか『パパの囲われ女』みたいでしょ。おかげでバイトしなくてすんじゃった」
「でも、お母さんとは、ずっとうまくいってないの?」
「う〜ん… うまくいってないわね〜」
「みっこはそれでいいの?」
「でもね… やっぱり心配してくれてるみたい。パパが内緒で仕送りしていることも、知ってて黙ってるみたいだし、時々、生活用品とかお洋服とかを、パパが送ってきてくれることがあるけど、あきらかに『ママチョイスでしょ』ってものが入ってるし」
「じゃあ、よかったじゃない。みっこの生活も認めてもらえてるってことね」
「ふふ。そんな簡単じゃないわ。あの人、とっても強情で、自分が決めたことを変えたがらないし、絶対自分の方から折れたりしない人だから。今でも、たまに家に帰っても文句ばかりだし、美容のチェックは厳しいし、いろんなオーディション探してきては、『受けなさい』って、うるさいのよ」
「あは。なんだかみっこそっくり。みっこって、母親似なのね」
「え〜… そうかなぁ。やだなぁ〜」
エレベーターで7階まで上がって、みっこの部屋に着くまで、彼女はずっとパパやママのことを話してくれた。
わたしは感心しながらみっこの話を聞く一方で、彼女がこんなにもためらいなく、自分のプライバシーを話してくれることが、とっても嬉しかった。
昨日までのみっこは、わたしと親しく話をしているようでも、どこか殻を作っていて、チェーンのかかったドア越しに話しているように感じることがあったけど、今日のみっこには、今まで感じていた、そんな隔たりがない。
昨夜の『Moulin Rouge』でのできごとで、彼女はなにかを掴んだのかもしれない。
「招いたのは、さつきがはじめてよ」
はにかむようにみっこはそう言って、部屋のドアを開けた。
「わあ! いい香り」
最初にわたしを迎えてくれたのは、玄関の飾り棚に置いてあった、ハーブのポプリの甘い香り。
大きめの1LDKってところかな?
女の子がひとりで住むには、ちょっと贅沢なくらいの広さ。
玄関を入ると短い廊下があり、左右にはそれぞれの部屋につながるドア。廊下のつきあたりには、ステンドグラスのはめ込まれた扉があって、その向こうの部屋からは、冬の木漏れ日が長いプリズムを作りながら、フローリングの廊下にこぼれている。
そんなステンドグラスの扉の奥の部屋へ、みっこはわたしを案内してくれた。
そこはリビング・ダイニングキッチン。
正面にはバルコニーへ続く掃き出し窓があり、右側の出窓からの光が、ライトブラウンのフローリングの床に、陽だまりをつくっている。
「すっごく素敵ね〜」
わたしはフロアを歩きながら、みっこを振り返って言い、部屋の中を見渡す。
光がいっぱい溢れたリビング・ダイニングキッチンは、とっても明るくてさわやか。
リビングに置かれたローチェストは、アンティークな生成りの白で、その上には、ミニコンポやテレビ、ちょっとした小物と花が、キチンと並べられている。
リビングセットはローチェストと同じデザインの、低めの丸テーブルとベンチチェスト。奥の壁の低い半円形の大きな出窓は、椅子がわりになっていて、可愛いクッションが並べられている。
キッチンとリビングの間のパー・カウンターは、ひとりの食事にはちょうどいい大きさだし、キッチンのこまごまとした小物を、リビングから見えないようにする役目もしている。
そんなに広くはないLDKを、みっこは上手に無駄なくレイアウトしているって感じ。
「みっこはインテリアのセンス、いいわね〜」
「ありがと、さつき。みんなお気に入りなの」
みっこはちょっと恥ずかしげに答える。
「他の部屋も、見ていい?」
「いいわよ。あたしその間にお茶入れてるから。さつきはコーヒー? 紅茶?」
「ん。じゃあ、紅茶」
「やっぱりマドレーヌに合うのは紅茶よね。『FAUCHON』のアールグレイがあるのよ」
みっこは「どうぞ」と、リビングのドアを開けてニコリと微笑むと、キッチンの棚から金色に輝く紅茶缶を取り出す。その間にわたしは廊下に出た。
左のドアを開けると、そこはユーティリティで、その奥にはバスルーム。
タオルやボディブラシなどの小物は、全部ロイヤルブルーで統一されていて、棚に置かれたタオルの端が、みんなキチンと揃っているのが気持ちいい。みっこって几帳面だなぁ。
ユーティリティを出て、向かいにあるもうひとつの部屋は、みっこのプライベートルーム。
ドアを開けると、ひんやりとした冬の空気が漂ってきた。
部屋の中をゆっくり歩くと、厚手の絨毯に足音が吸い込まれていく。
この部屋はリビングと違って、シックで落ち着いた印象。
アンティーク調の深い木目のライティングビューローに椅子。ベッド、本棚、電子ピアノ。天井まである折れ戸のクロゼット。
わたしは条件反射的に、本棚に並んだ本を眺めた。
ファッション・プレート全集や、服飾事典、『流行通信』『ヴォーグ』といった、ファッション関係の雑誌が、大部分の場所を占めている。
そんな本たちに追いやられるように、棚の一角には日頃見慣れている、大学の教科書にノートに関連資料本。
だけどそれらの本は、ほかのファッション系の本に較べて、どこか場違いな感じで、窮屈そうにしている。
わたしはそんなみっこの本棚を見て、ファッションモデルをめざしていたのに、想いを果たせなかった彼女の『いきさつ』が、漠然と、だけど実感として、伝わってきた。
みっこが今、いるべき場所は、ここじゃない。
彼女には、わたしと同じ大学に通うよりも、他にやることがあるんじゃないかしら…
『モデルにはならない』と言いながらも、いまだに並べられているファッションの本と、その隅で居心地悪そうに並んでいる大学の教科書を交互に見ながら、そんな想いがわたしの胸の中に、とめどなくわきあがり、複雑な気持ちになってくる。
「なんとかならないものかな…」
わたしはそんなひとりごとを言いながら、今度はみっこの机に目をやった。
猫足のライティングビューローの上には、スチール製のペン立てと、ふたつのフォトスタンド。それに象眼が刻された、古いオルゴールのジュエルケースだけが置いてある。
わたしはオルゴールを手にとった。
それには『1912 Made in England』と刻まれていて、長い年月に磨かれた光沢が、オルゴールの蓋に嵌め込まれた貝殻のかけらとあいまって、鈍く輝いていた。
四隅の飾りは、わたしの好きなエドマンド・デュラクの『眠れる森の美女』の彫刻。わたしは蓋を開けた。オルゴール独特の、はじけるようなもの哀しい澄んだ金属音が、チャイコフスキーの交響曲を奏でる。しばらくの間、わたしはその旋律に、うっとりと聴き入った。
そうしながら、わたしはなにげなく、机の上のフォトスタンドに目をやった。
褪せかけた蒼色のフォトグラフと、鮮やかな新しいプリントが対称的な、ふたつのフォトスタンド。わたしは古い写真の入ったフォトスタンドを手にとった。
それは、椅子に座った中年の男性とその隣に立つ女性、彼のひざに抱かれて、オルゴールを持っている少女が写っている写真。
ああ。これはみっこの家族ね。
五十がらみのお父さんは、ちょっとおなかが出ていて貫禄があるけど、めがねをかけた目元が聡明そうで、顔立ちも鼻筋がくっきりと通っていて、なかなか渋くて魅力的。
かばうようにみっこを抱いている大きな手は、ほんとに娘のことを大事にしているって感じで、とっても愛に溢れている。
一方のお母さんは、パパよりひと回りは年下らしく、若くてすばらしく綺麗な女性。
いかにも『モデル』という感じで、背が高くて脚が長く、キリリとした目元や唇に、みっこが言うような意志の強さを感じる。
やっぱりみっこはママ似なんだ。みっこもあと10年もすれば、こんな感じになるのかなぁ。
なんだか、未来の彼女を見てしまったようで、わたしはひとりでクスクス笑ってしまった。
そして3歳くらいの少女森田美湖は、瞳がぱっちりとして黒目が大きく、睫毛が長く反っていて、信じられないくらいの可愛らしさ。ほっぺたなんかぷくぷくしていて、まるで陶器のよう。クルクルと巻いた長い髪に、レースで縁どりされたボンネットをかぶり、ペチコートたっぷりのお洒落なドレスを着て、まるでジュモーかアンドレ・テュイエのアンティーク・ドールそのものだった。
以前、由貴さんから見せてもらった広告写真でもそうだったけど、こんな彼女を見ていると、森田美湖は、わたしとは違う世界で生きている女の子かもしれないなと、ちょっぴり切なくなってしまう。
そんなことを漠然と考えながら、みっこの家族写真を見ていたわたしは、もう一枚の写真の入ったフォトスタンドに視線を移した瞬間、はっと目を見張った。
その写真は、青い海と空をバックにした、水着姿のふたりの女の子が並んで写っているものだった。
そう。
今年の夏に、みっこと海に遊びに行ったときに、ふたりでふざけながら撮った写真。
強い日射しに深い影を刻みながら、わたしがみっこに肩を抱かれて、ふたりでカメラにピースをする姿が、懐かしくあのときのことを思い出させる。
わたしは思わず、胸がジンと熱くなった。
なぜ、こんな気持ちになるんだろう?
きっと、彼女の心の中に、はじめて自分の存在を見つけることができたから?
そんな気がしたから…
「さつき〜。紅茶が入ったわよ」
リビングから、みっこがわたしを呼ぶ声がした。
「う、うん」
わたしは返事をしてフォトスタンドを机に戻すと、みっこの部屋をあとにした。
リビングルームのテーブルには、すっかりお茶の準備が整っていて、アールグレイのさわやかな香りが部屋いっぱいに立ちこめている。
お湯を注いで、暖かなもやをくゆらせている、『ロイヤル・アルバート』のピンクのティーカップ。
琥珀色の紅茶をたたえたメリオールとミルクピッチャーは、レースのカーテンをとおした柔らかな日射しを映していて、透きとおるほどに綺麗。わたしの焼いたマドレーヌも『ロイヤル・アルバート』のプレーン皿に並べられていて、美味しさが数倍増して見える。
わたしは窓辺の椅子に腰をおろすと、並べられた食器を見て、不思議に思って訊いた。
「あれ? カップが1客しか出てない」
みっこはマドレーヌの回りにクッキーを並べながら、答える。
「ん。実はさつきに立ち会ってもらおうかと思って」
「立ち会う?」
みっこはキッチンの食器棚のいちばん奥から、1客のティーカップを持ってきた。
『ウエッジウッド』の上品なパウダーブルーのティーカップ。
「このカップ、去年のあたしの誕生日に、直樹さんが贈ってくれたものなの」
え?
わたしはドキリとした。
まさかみっこは、わたしの『立ち会い』のもとに、このカップを割ってしまうつもりなんじゃ…
しかし彼女は、カップを丁寧に洗うと、ゆっくりと宝物を扱うように、拭きあげた。
「あたしってバカよね。あの人から最後にもらったこのカップを見るのがイヤで、何度も割ってしまおう、でなきゃ、家の物置の奥にしまっておこうって思ってたのに、わざわざ福岡にまで、持ってきてしまってる」
彼女は紅茶を注ぎながら、じっと『ウエッジウッド』のティーカップを見つめる。
「この一年間、どうしても使えなかった。使う気になれなかった。
だけど今日、はじめてこのカップで、お茶を飲みたいなって気になれたの」
「それって、藍沢さんのこと、いい想い出にできたってこと?」
「まだ、よくわかんない。でもひとつわかるのは、あたしこれからは、今までとは違った気持ちで、あの人のことを考えられそうだってこと。
昨日までは、なんとかして忘れよう、心の中から消し去ろうって頑張ってたけど、そんな必要はなかったのかもしれない」
「みっこ…」
「今日はなんだかとっても、あの人が愛しいの。だけど、不思議と執着がないの。
こんなに穏やかな気持ちであの人のことを考えられたのは、はじめてだわ。
だから今日は、新しい記念日」
そう言って彼女はカップを手に取り、少しうつむきながら口づけて、コクンとひとくち飲んだ。
それを見ていたわたしは、昨夜からの心のもやもやした霧が、すうっと晴れていくような気がした。
みっこは今、ひとつの想いを乗り越えられたのかもしれない。
「ね。藍沢さんとのこと、もっと話してもいい?」
「え? う、うん。もちろん…」
意外。
みっこの方から『話していい?』だなんて…
「そう言ってくれて、なんか嬉しいよ」
わたしがそう言うと、みっこはまぶしそうに目を細めて、微笑みながらうなずいた。
「あたしとあの人がはじめて出逢ったのは、あたしが中学三年生になった年の春だったわ」
みっこは懐かしそうにかすかに頬を緩ませ、わたしの焼いたマドレーヌを口にする。
「ん。おいしい! さつきってお菓子づくりの天才ね」
「あは。ありがと。それで?」
「あたしはまだ14歳で、直樹さんも21歳だったわ。はじめはあたしの家庭教師として、家に派遣されてきたのよ」
「先生と生徒かぁ。なんだか危険な香り」
「さつきってば、ハーレクイン小説の読み過ぎよ」
「ごめんごめん。で?」
「それでね… あたしは勉強はあまり得意じゃなかったけど、両親、特にママは、あたしを都内の『お嬢様高校』に行かせたくて、このときだけは熱心に勉強させようとしてたの。まったく、都合のいい話よね」
「まあまあ。それで、みっこは藍沢さんにひと目惚れだったの?」
わたしがそう訊くと、みっこはぽっと頬を染めた。
「よくわかんない。ただ、はじめてあの人が家に来た日のことは、今でもよく覚えているわ。
直樹さんがやってきて、ママが玄関からあたしを呼んで、階段を降りながらあの人の顔を見たとたん、あたし、なぜか緊張してアガってしまって、つい『あたし、勉強なんかキライです』って、言っちゃったの。ママは怒ったけど、直樹さんは『あっそう。ぼくも嫌いだな。でも美湖ちゃんのことは、好きになれそうだよ』なんて、涼しい顔して言うのよ。
『なんなの? この人』って思って、あたしムッときて、その日は全然勉強しようとしなかった。
そうしたら彼も、教科書開こうともしないで、2時間の授業中、ずっと世間話やおかしな話ばかりしてくれたわ。
でも授業の時間が終わって帰り際に、『美湖ちゃんがほんとに勉強したくないのなら、ぼくはもう、ここに来れないね』って、真剣な顔して、あたしを見つめて言ったの。
そういう言い方されると、あたしも反抗したくなるじゃない?
『じゃあ、来なくていいわ』って言っちゃったけど、彼が帰ってしまうとすごく寂しくなって、『ほんとにもう来ないのかな?』って、とっても心配になってしまったの。
なのに次の週に、そんなこと言ったのも忘れたかのように、ケロッとした顔でうちに来た直樹さんを見て、またムッとしたけど、ほんとはとっても嬉しかった。
今から考えると、直樹さんって、最初からあたしの扱い方がうまかったのかもしれない。
直樹さんは家庭教師のバイトをいくつか持っていて、あたしの家には週2回の2時間だけ教えに来てくれたけど、受験の追い込みに入る秋の終わりくらいからは、ほとんど毎日来てくれたわ。難しい試験に受かったのも、直樹さんのおかげだった」
「みっこはその頃はもう,藍沢さんのこと、好きだったの?」
彼女は喋りっぱなしで乾いた喉を潤すように、コクコクと紅茶を飲みながら、コクンとうなずく。
「多分… さつきの言うように、はじめて会った瞬間から、好きだったんだと思う。
なにもかも、あたしよりずっと大人びていて、あたしが思いっきりぶつかっていっても、すんなりと受け止めてくれるような、そんな余裕が好きだった」
「そうよね。藍沢さんって、話し上手で聞き上手だもん。やっぱり大人の余裕よね」
「でも、あたしは受験で勉強浸けだったし、あの人とは七つも歳が離れているでしょ。だからあの人は、中学生のあたしなんか、問題にしてないだろうって感じてて、ほとんどあきらめていたの。
それでもあの人の来る日は、いちばんお気に入りのお洋服を着たりとか、部屋を綺麗に片づけて、ポプリを置いたりとかして、少しでもあたしのこと好きになってもらいたくて、落ち着かなかったわ。
ただ、勉強を教えにきてくれるだけで、そんなにそわそわしてしまうなんて、今考えると、なんだか照れくさくって、恥ずかしい」
「でもそういうのって、とっても素敵なことよね〜」
わたしがそう言うと、みっこは軽く瞳を閉じて、しばらく口を噤(つぐ)んだ。
その頃の甘酸っぱい、綺麗な想い出を、味わうように…
「そして、合格発表を直樹さんと見に行った帰りの喫茶店で、あの人からいちばん嬉しい言葉をもらったの!」
彼女はパッと目を開けると、瞳をキラキラと輝かせながら、花が咲くように言った。
「『みっこちゃんには、もうぼくは必要なくなっただろうけど、ぼくには君が必要なんだよ』って」
「うわっ。それで! みっこはなんて答えたの?」
わたしがそう訊ねると、みっこはそのときの告白をそのまま繰り返すかのように、頬を紅潮させて言った。
「『そんなことない。あたし、藍沢先生がほしい』って、あたし、慌てて言ったの」
「へえ〜。ストレートな返事ね」
「でしょ。ほんとはもっと気の利いた言葉を言いたかったんだけど、ああいう場面じゃ、そんな余裕なんて、ぜんぶ飛んじゃうのよね。
だからあたし、さつきと川島君が、いろいろ回り道しながら、やっと心がわかりあえて、つきあうようになったの、よくわかる。恋している人たちって、はたから見れば、滑稽だったり愚かだったりするけど、本人たちにとっては、本当にマジメで重大なことなのよね」
「そうなの! 理性じゃわかっているんだけど、感情が勝手に別の方へ暴走していっちゃうのよ!」
「そうそう! そういう自分を見て、恥ずかしくってしかたないんだけど… なぜか止まらないのよね〜」
みっこは頬を上気させながら、わたしの言葉に相づちを打ち、はずんだ心を抑えるかのように、紅茶を飲んでマドレーヌを食べた。
「直樹さんって、強引なところがあるのよね〜」
ひとしきりおしゃべりを休むと、みっこは当時を懐かしむような眼差しになって、話を切り出した。
「直樹さんってあたしよりずっと年上で、当然恋愛経験もあったし、いろんな面であたしより大人だったのが、なんだか悔しかったわ」
「藍沢さんの過去の恋愛とか、聞いたりしたの?」
「なんとなく、ね。あの人、『そう言うのを話すのはルール違反だから』なんて言うんだけど、会話の端々に過去の恋の影が、見え隠れしちゃってるのよね〜。それってもどかしいけど、どうにもならないじゃない?」
「そうよね〜。その『過去』があるから、今のその人があるんだし」
「まあね。そんなたくさんの『過去』持ちの直樹さんだったから、あたし、彼についていくだけで精いっぱいで、自分のリズムが全然つかめなくて、ずっと引きずられてばかりだった。だけど、心地よい強引さって言うかな… そんな毎日も、とっても新鮮で楽しかったな。
デートのたびに、いつも新しいことの連続で、ちょうど高校生になって、なにもかもが変わったばかりの時期だったし、その頃の日記なんて、ハートや感嘆符つきの言葉がずらっと並んでいるって感じ。今読み返すと、『こんな小さなことで、いちいち感動してたんだな〜』って、なんだか自分が可愛く思えちゃう」
「うん。わかるわ、その気持ち」
「そうよね。さつきはちょうど今がそんな時期だもんね。ファーストキスのことなんか、何ページも使って日記に書いたんじゃない? さつきって文章力あるから、すごい名作になってそう」
みっこは軽くウィンクしてわたしをからかったが、あまりにもタイムリーな言葉で、わたしは思わず、頬っぺたに全身の血が集まってきた気がしてしまった。
昨夜のできごとが鮮やかに甦って、われながらとんでもない大胆なことをしたものだと、恥ずかしくなってしまう。
そして、そんな気持ちを長々と日記に綴って、眠れなくて、今も少し目が赤くなってるんだ。
「み、みっこだって、そうだったんでしょ!」
わたしは自分の恥ずかしさを隠すように、あわててみっこに言う。彼女もぽっと頬をピンク色に染めて、うなずいた。
「なんだかビデオを見ているみたい。その頃のあたしの情景は、心の中にはっきり見えるんだけど、今じゃ自分のことじゃないみたいで、映画かなにかのワンシーンみたいに感じるの」
「それで? みっこのファーストキスはどうだったの?」
わたしは好奇心にかられて、思わずみっこに突っ込んだ。
「どうって… 不思議なものね。本や映画や人の話なんかで、知識はいっぱいあるつもりだったのに、実際にくちびるが重なると、なにも考えられなくなっちゃう」
「そっか〜。やっぱりそうよね」
「やっぱり?」
「いや… まあまあ。今はみっこの話だから。それで?」
「ふふ、まあいいわ。さつきの話は次の機会に、たっぷり聞かせてもらうから」
「藍沢さんって、キスとかも上手そうよね〜」
わたしがそう言うと、みっこは思い出に耽るように頬を染めながら軽く微笑み、また自分の『映画のワンシーン』に戻っていった。
「そうなのよ。直樹さんったら、軽いフレンチキスからディープなのまで、いろんなキスをしてくれたな。
キスしながらあの人、軽く唇を噛んだり、舌を動かしたりするの。そんな風にされると、つい、声が出ちゃって。ガマンしようとしても、どうしても漏れてきちゃうの。直樹さんは『みっこの声、とっても可愛いよ』なんて言うんだけど、そう言われると、もっと恥ずかしくなってしまうんだから」
「うん、うん、それで?」
「それで… 結局、そうなってしまったのよ」
「そうなったって… どうなったの?」
「もうっ。さつきったら、あんまり突っ込まないでよ。恥ずかしいじゃない」
みっこは耳たぶまで真っ赤に染めて、首を振るけど、わたしの好奇心は、もう止まらない。
「いいじゃない。昨日はみっこだって、わたしと川島君のこと訊いてたじゃない。あのときはみっこのことは、はぐらかされたけど、今日はここまで話したんだから、全部言っちゃいなさいよ」
「んもうっ…」
「それで、どうなったの?」
「どうって言われても… さつきも、してみればわかるわよ」
「わ、わたしはまだ、そんなことしないんだから!」
思わず興奮してかぶりを振ったわたしに、みっこは察したように言う。
「そう言ってても、実際、キスをしてしまえば、そうなるのは早いものよ」
「そ、そうかな?」
「あたしも直樹さんには、『高校卒業するまでは、エッチとかしない』って宣言してたのに、キスをされちゃうともうダメ。肌が触れあうのが愛しいっていうか、もっと深いところまで愛してほしいっていうのかな? それ以上のものがほしくなってくるの。
あれは、高校一年の夏休みだったわ。
ロケ先のデンマークにあの人もついて来て、ロケのみんなと一緒に泊まっていたホテルを、あたしは夜中に抜け出して、直樹さんが泊まっていたホテルの部屋で、はじめて結ばれたの。
白夜で、空が一晩中白んでいて、幻想的な夜だった。まるで夢の中のできごとみたいに、直樹さんはあたしの全身を優しく撫でてくれて、気がつくと、あたしの中に入ってきてて、あたしの頭は朦朧となって、シャガールの絵みたいに、いろんな景色の断片が、浮かんでは消えるような感じだった。
だけど朝、目が醒めると、シーツが汚れちゃってて、おなかの下に妙な違和感があって、痛くって、気分がすぐれなかったわ。だからもう、二度としないって誓った」
「でも、そのあともしたんでしょ?」
「ん〜。ダメなのよね〜。
あの人に会って、キスされて、抱きしめられると、『もうどうでもいい』って気持ちになっちゃって。
そうするといつの間にか、ブラウスもスカートも脱がされてて、キスしながらボタンでもファスナーでも、簡単にはずされてしまうのよ。ほんっと、変なところが器用なんだから」
「テクニシャンなのね〜」
「悔しいからあたし、デートのときに、ボタンが40個くらいついたワンピースとか、下着も脱がされないように、ギュウギュウに締めつけられたコルセットとか、着ていったことがあったわ。そうしたら逆に興奮されておもしろがられて、ひとつひとつ丁寧にはずしていくの。
そんなことされると、こっちまで、なんだかじらされているような、たまらない気持ちになっちゃって… そのときはじめて、快感っていうか… イった感じがしちゃったの」
「つ… 爪、立てたの?」
わたしは彼女の話に思わず引きずり込まれて、昨日藍沢氏が言っていたことを思い出し、そう訊いた。
「立てた立てた!
『みっこちゃんと別れるまでは、ぼくの背中はだれにも見せられないね』なんて、あの人がしゃあしゃあと言うから、あたしもムキになって、血が滲むくらいガシガシ引っかいてやったわ」
「わぁ〜。痛そう。みっこってやっぱり過激なのね」
「ふふ。でも… 幸せだった。
あの人とひとつになれた充実感… っていうのかな? あの人のものがあたしの中でいっぱいに広がると、あたしの足りなかった部分が満たされていくような気がして、痺れるような快感に浸れるの。あたしのいちばん奥のお部屋を、あの人に“コツコツ”って、ノックされて。
そうされているうちに、大きな波が訪れて、きゅーんって意識が遠のいちゃって、夢を見るような気持ちになるの。
それが嬉しくて気持ちよくて、あたし一度も彼を拒まなかったし、あたしの方から求めることだってあった。
今思えば、あたしと直樹さんとの恋愛の中で、あの頃が怖いものなしの、いちばん無邪気な幸せに浸ることができた時期だったみたい」
みっこはそう言うと、じっと『ウエッジウッド』に注がれたアールグレイに映る自分を見つめた。ゆらゆらと波紋を残して、みっこの姿が曖昧に揺れる。
きっと彼女はその頃の、『無邪気な幸せ』だった日々を、懐かしく憶い出しているのかもしれない。
そうしてそんな、なにも悩みのない恋愛は、もうできないことを。
彼女の中のなにかに訣別しているような…
そんな気がして、わたしは黙ってみっこを見つめた。
「『恋をしたことのない者は人生の半分、それも美しい方の半分を知らない』って、ことわざがあるでしょ」
みっこは『ウエッジウッド』を両手で抱くようにして言う。
「あたし、この言葉が大好き。今振り返れば、いろいろ恥ずかしいことやみっともないこと、したり言ったりしたけど、どれもみんな素敵なできごとばかりだった。
あたし、そんな恋に巡り会えて、本当に幸せだったと思ってる」
「わたしもそう思うわ。『恋』っていう稀な感情が、今自分の中にあることを、嬉しく思うし、感謝もしているもの」
みっこの言葉が、いちいち自分の気持ちと重なって、わたしは同調するように言った。
そしてわたしは、この恋を一生手放したくないと思っているし、みっこもかつて、そう思っていたに違いない。
なのに、どうしてふたりは別れることになったの?
言葉が少なくなってきたみっこは、すうっと視線を、ティーカップから、窓の外の彼方へ移す。
なんだか見覚えのある表情。
ああ…
これは夏にふたりで海に行ったとき、不意に彼女が見せた表情だったわ。
あのときわたしは、『みっこは彼氏、いないの?』って訊いたんだっけ。
すると彼女は今みたいに視線をそらしながら、『あたしはまだ、心から好きになれる男の人に、出会ったこと、ない…』って、答えた。
藍沢直樹氏と別れて一年。
みっこはいつも過去を追っていて…
ううん。過去に追いかけられていて、モデルをやめたり、福岡の大学に来たりしながら、自分の本当の居場所を探していたのかもしれない。
長い沈黙のあと、彼女はようやく口を開いた。
「だけど、そう思えるようになったのは、つい最近のことなの。
それまであたしには、なんにもわからなかった」
みっこの遠くを見つめる瞳が翳(かげ)った。微かに眉をひそめて、彼女はきゅっと唇を噛む。
「はじめて彼を拒んだのは,高校三年になったばかりの、春だった」
「拒んだ?」
「さつき。あたし、いつかあなたに、『ほんとに川島君を好きなら、そのくらいのプレミアムは、払った方がいいんじゃないかな?』って言ったの、覚えてる?」
「うん。覚えてるわ」
「あたしはきっと、それをしなかったのよ」
「え?」
彼女はわたしから視線をそらせたまま、じっと『ウエッジウッド』のティーカップを見つめる。
とても厳しい。
なにかを責めるような瞳が、森田美湖と藍沢直樹との『無邪気な幸せ』の恋愛が、『ターニングポイント』を迎えて、光から陰に変わったことを表していた。
「みっこ… 訊いていい?」
「うん?」
わたしは、藍沢氏の説明では今ひとつあいまいだったことを、みっこに訊いてみたかった。
「昨日、藍沢さんは『恋愛にも起承転結があって、いつかはターニング・ポイントを迎える』って言ってたの。みっこと藍沢さんとのターニング・ポイントって、なんだったの?」
「…」
わたしがそう訊くと、みっこはさっと顔色を曇らせ、緊張したように、ぎゅっと両手を握った。
「あ… ご、ごめん。そんなこと言えないよね。ごめんね、みっこ」
わたしは繕うように、努めて明るく言ったが、みっこは心の中でなにかを追いかけているように、瞳を閉じて黙ったままだった。
しばらくそうしていて、やがて決心したかのように、わたしをまっすぐ見つめて、話をはじめた。
「うまくは言えないと思うけど… なんてのかな…? 結局あたしたち、なにもしなかったの」
「え?」
「…あたりまえすぎたの。あたしたちが、いっしょにいることが」
「いっしょにいるのがあたりまえって…」
「人って、どんどん変わっていくものなのよね。一日一日じゃわからないけど、何ヶ月もすると、確実に前の自分じゃなくなっていると思うの。そうして、自分と同じように、相手だって変わっていってる」
「…」
わたしは黙って、みっこの言葉に耳を傾けていた。彼女は注意深く言葉を選びながら、話を続けた。
「だから、つきあい方も、それなりに変わらなきゃいけないはずなのに、あたしたちはいつも会っていながら、相手の変化に、全然鈍感だったのよ。
いつも、あたりまえのように、会えばキスして、抱きあって…
さつきの言うように、恋なんて稀な感情なのに、それがまるであたりまえみたいな気に、いつのまにかなっていた。
つきあいはじめた頃には、『…をしてくれた』って表現が多かった日記も、その頃には『…をしてくれない』ってのばかりに変わっていたわ」
「相手に不満が出てきたってこと?」
「…そうじゃないわ」
みっこはふっと微笑み、自嘲気味に言った。
「あたしの身長は高校二年生の頃には、もう伸びなくなってしまった。
学園祭の夜にも言ったけど、ステージモデルになるには、最低でも身長165センチくらいは必要なの。身長がなきゃ、モデルとしての力量を見られる前に、書類審査で落とされてしまうのよ。モデルになる資格がないのよ。だから、食事もタンパク質の多いものを摂るようにしたり、運動をしたり、雑誌に載っている方法を試したり… 背を伸ばすために、それこそいろんな努力をしたわ。だけどあたしの身長は、157センチで止まってしまった。
ママは172センチあってステージモデルをやってて、あたしにもそうすることを望んで教育していたから、とってもがっかりしてた。あたしは、自分の存在が全否定されたように感じたの。
それにモデルってのは、だいたい20歳くらいまでにその方向が決まってしまうから、あたしに残された時間は少なくて、『今まで自分がやってきたことは、なんだったんだろう』っていう虚しさと、『これからどうすればいいの』って不安とで、あたしはかなり焦ってた。
一時は、服が好きだから、作る側になろうかなって、本気で考えたり、ダンスやピアノの道に進もうかとも思ったり、もちろん、身長が低くてもできるモデルの仕事を探したりもしたわ。
でもそういう仕事って、やっぱりあたしが望んでいるものじゃなくて、あたしはイライラして、ちょっとしたことで、すぐ情緒不安定になっていた。
なのに、直樹さんに相談しても、あの人は『モデルを続けろ』って言うばかりで、全然あたしの悩みをわかってくれなかったの。
あの日だって、いっしょに撮影したモデルから、身長のことでからかわれて、すごく落ち込んでいたところに、直樹さんが『じゃあ、ぼくが慰めてあげるよ』なんて言って、覆いかぶさってきたの。
セックスであたしの気分を変えられるって思ってる無神経さと思い上がりに、あたし腹が立って、大声を上げて、思わずあの人を突き飛ばした。
そしたらあの人、『そんな怖い顔すると、せっかくの美人が台無しだ』なんて言うの。
なんだか絶望したわ。
その頃からあたし、『直樹さんがあたしを好きなのは、あたしがモデルをしていて、女子高生で美人で、他の人に自慢できるから』なんて、傲慢なこと考えるようになってしまって…
そんなことばかりだったから、だんだん卒業が近くなると、あたしは怒りっぽくなってしまって、ちょっとしたことですぐ、直樹さんとけんかしてた。
もう、自分のことを考えるので精いっぱいで、直樹さんだけじゃなく、他の人の気持ちも考えてあげられなくなって、どんどんイヤな自分になっていっちゃって…」
彼女の言葉は、切羽詰まってきたかのように、次第に速くなっていく。
「そして秋ぐらいになると、もうお互いに自己主張するしかなくなって、セックスもあの人の欲望のはけ口にしか思えなくなって、苦痛になって…
そうなってくると、なんだかまっさかさまに転がり落ちるって感じ。
あたし、モデルも直樹さんもママもすっかりイヤになってしまって、もう、こんな最悪の状態からとにかく抜け出したくって!」
ボルテージの上がったみっこは、興奮しながらそう言うと、はっとして口を噤んだ。
きっとこの子には、『まっさかさまに転がり落ちていく』そのときの情景が、ビデオテープを再生するかのように、鮮やかにはっきりと見えるんだ。
彼女は興奮を抑えるかのように、大きく息を吸い込むと、肩の力を抜いて、ティーカップを手に取った。
「だから、別れたの」
そう言いながら、みっこはわたしを見つめて微笑んだ。
「あたし。そのとき、自分を取り囲んでいたなにもかもと、離れてしまいたかったのよ。
直樹さんとも、モデルとも、家とも…
18年の間に築いてきた… 築かされた自分を、リセットしてしまいたかった。
いろんな状況が煮詰まってしまってたあの頃。あたしにはそうする以外に、生きる道がないって、思ってた」
「それが、みっこが言ってた『カーニバル』ってこと?」
「そう。学園祭の夜、さつきと話しててやっとわかったの。
あたし、今はお祭りの中で生きているんだな、って…
自分が今まで生きてきた18年と、全然関係のない世界で生きてるんだな、って…
今までの自分を、全部まとめて捨てちゃったんだ、って…」
彼女がそう断定した瞬間、わたしの中で切ない想いが、どうしようもなくこみ上げてくるのを感じた。
今、現実に目の前にいるわたしは、みっこにとって、『お祭り』の中での存在でしかないの?
みっこほどの女の子でも、ここまで追いつめられてしまったら、もう立ち向かっていくことは、できなくなるの?
そんなに失恋の痛手が深いものなら、もしわたしがそうなったとき、わたしに耐えることはできるの?
「…みっこの『カーニバル』は、まだ終わらないの?」
わたしはかろうじて、それだけを訊いた。
みっこは瞳を閉じて、深い想いに沈んだあと、おもむろにかぶりを振った。
「この『カーニバル』だって、あたしの選んだ、現実の生活なのよ」
「え?」
「昨日は、現実からずっと逃げ続けてきたあたしのツケを、払わなきゃいけない日だったのかもしれない」
そう言うとみっこは、観念したかのような笑みを見せた。
「同じディスコで、別れた彼氏と、ちょうど一年振りの再会なんて、すごい運命のいたずらよね?」
「みっこ…」
「だけどよかった。昨日、直樹さんに会えて…
あたしはわがままで、自分から引き下がることなんてできなくて、前に進もうとしてばかりだったけど、一歩下がって負けを認めれば、心が楽になって、いろんなことが見えてくることに気がついた。
あたしは失敗して、いろんなものを無くしちゃったけど、だからこそ、本当に大切なものがなにか、よくわかったの。
藍沢直樹さんって、あたしにとっては、かけがえのない男(ひと)だった。
そんな彼に出会えて、ひとときでも恋愛できて、ほんとに幸せだった。
あの人とはもう、同じ道を歩くことはできないけど、あたしに大切なものをたくさん遺(のこ)してくれた。そして…」
みっこはそこで言葉を区切った。
『ウエッジウッド』を暖める指先が震え、わずかに力がこもる。
「あたし… やっぱり、モデルをしたい!」
紅茶の雫の残ったカップの底に、ひと粒、水滴がはじけた。
はっとしてみっこを見ると、彼女の瞳には、あふれるほどにいっぱいの涙がたまっている。
だけどわたしは、それを『涙』なんて、悲しい言葉では呼びたくない。
今のみっこの言葉で、わたしははっきり実感できたもの。
みっこは、ひとつ、成長したんだなって…
まるで、古いしがらみの殻を、すっと抜け出すように。
今の彼女には、昨日までのなにかに挑むような、ぎりぎりの崖っぷちに自分を追いつめるような森田美湖の面影は、もうない。
今、こうして語っているみっこは、意を決した言葉の中でも、どこか柔らかく、その表情にも穏やかさを感じる。
そんな彼女は、今までにもまして、とっても魅力的。
たまらないな。
同い年で(わたしの方が年上だ)同じ大学に通う同じ女の子なのに、目の前でこうも成長されちゃうと。
わたしだって頑張らなきゃいけない。
「あたしの長いお話は、これでおしまい。ごめんね、つきあわせてしまって… ありがと」
みっこは自分の心を見せてしまったことに、ちょっとはにかむように照れ笑いを浮かべながら、カップに残った、もうすっかり冷めてしまったアールグレイを、こくんと飲みほした。
「ううん。でも、みっこのことを、こんなにたくさん聞かせてもらったのは、はじめてね」
「あは。あたしも、だれかにこんなに自分の話ししたの、生まれてはじめてかも」
彼女はそう言ってニッコリ微笑む。
「あたし、なんだか乾杯したくなっちゃった。ね! 今からパーティやろうよ!」
「え? いいわね。やろうみっこ!」
わたしたちはすっかりその気になってテーブルを立ち、キッチンに向かうと手早く料理を作る。
たちまちテーブルの上には、サラミと生ハムとチーズのオードブルに、ピザにポテトサラダ、みっこのとっておきのワインなんかが並んだ。
二日続きのバースディ・パーティ。でも今日のパーティは、充分に意味のあるものだと思うわ。
わたしとみっこはいい気持ちで、何回も乾杯を重ねた。
「みっこのバースディに乾杯!」
「さつきと川島君に乾杯!」
「みっこのモデル復活に乾杯!」
「ついでに直樹さんにも乾杯!」
「そうだったわ。さつきからのプレゼント、開けていい?」
彼女は思い出したようにワイングラスをテーブルに置き、わたしの贈ったピンクの小箱を取り出した。
ドキドキ。
正直言ってわたし、みっこにはどんなものが喜んでもらえるか、よくわからない。でも、なんでも着こなしてしまう彼女だから、思い切って派手な小物を選んでみたんだ。
「わぁ〜、可愛い!」
みっこに負けないくらいに鮮やかで、少しクラシカルなペパーミントグリーンの、レースのバンダナ。
「ペパーミントグリーンって、春の色ね。とっても綺麗! ありがとう、さつき」
みっこはバンダナを頬に当てて、微笑んだ。よかった。
「バンダナっていろいろ応用がきくから、便利よね。ヘア・リボン代わりにでもしてみようかな」
そう言いながらみっこは、ポニーテールにしていた髪をさっとおろし、手慣れた調子でバンダナをくるくるっと髪に巻きつけると、頭の上でリボンのように広げてみた。
「どう?」
「わ〜! そのラフ感がいいわ」
大雑把に掻きあげて結んだ髪は、空気をいっぱい含んで、ふわふわと頭の上で揺れていて、襟足の後れ毛がとってもフェミニン。
彼女は手鏡を取り出すと、ニッコリ微笑んでウィンクしたり、斜めに顔を向けて澄まし顔。首を振って口をすぼめ、小悪魔のように肩をすくめてみたりと、楽しんでいる。
この子、こんなにもいろんな表情があるんだな。わたしは早く、彼女がモデルとして活躍している姿を見てみたい。
「あたし、なんだか踊りたくなっちゃったな〜」
彼女はそう言うと立ち上がり、つま先でくるりとフルターンをした。
「うん。踊ってみせてよ。みっこのバレエしてるとことか、見てみたいわ」
彼女のノリにつられて、わたしも立ち上がって言った。
みっこは『ふふん♪』と鼻歌を歌いながら、わたしの手を取り、その手を高く掲げて、わたしをくるりと回す。
「えっ? わたしが踊るの?!」
「さつき、ターン上手。こうなったらちゃんとやりたくなったわ。いい?」
「もちろん、いいわよ」
わたしがそう返事をするより先に、みっこはクロゼットからレオタードとバレエシューズとレッグウォーマーを取り出し、ぱぱっと着替えて、外着にニットのロングセーターをかぶった。
「今の時間は、1階のスタジオが空いてるの。どうせ踊るならそこがいいわ」
彼女はわたしの腕をとりながら、部屋を出るとエレベーターに駆けこむ。
彼女のテンポの速さには、ついていけなくなるときもあるけど、今はその流れが心地よかった。
1階のスタジオは、南向きの広いフローリング仕上げ。
壁に取りつけられた大きな鏡と、二本のレッスンバー、オーディオセットしかない明るい部屋に、冬の太陽が白い陽だまりを作っている。
みっこはロングセーターを脱いでオーディオのスイッチを入れ、プレーヤーのトレイを開いてCDをセットしながら、背中越しにわたしに言った。
「昨夜、さつきね。ドレッシングルームで泣いていたあたしに、声かけないで、見守ってくれてたでしょ?」
「えっ?! みっこ気づいてたの?」
「ん…」
そう言ってみっこは、わたしを振り返って見つめる。
「あのとき、あたし。あなたのことを、本当に『親友だ』って思えたの」
「え?」
みっこはまっすぐにわたしの瞳を見つめる。逆光がまぶしい。
「あたし… 今まで親友なんていなかったから、だれにも弱みをさらさないで、ひとりでいることに慣れすぎていたし、弱い自分を見られるのが、とってもイヤだった。
でも、自分の悩みとか苦しみを打ち明けて、いっしょに分かち合ってくれる人がいるって、いいね。
あたし。西蘭女子大に来て… あなたに会えて… 本当によかった」
みっこの瞳。わずかに潤んでいるように見える。
わたし…
そんな風に言われると…
なんて答えていいか、わからないじゃない。
ただね、みっこ。
わたしはずっと前から…
みっこに対して、そんな風に思ってたよ。
「みっこ…」
わたしの言葉を遮るように、曲のイントロが大きなスピーカーを揺さぶって、高らかに鳴りはじめた。
ああ… 懐かしいな。
ABBAの『Dancing Queen』。
You are the Dancing Queen
young and sweet only seventeen
Dancing Queen
feel the beet from the tambourine
you can dance, you can jive
having the time of your life
see that girl, watch that scene
dig in the Dancing Queen
透けるように綺麗なカルテットのヴォーカルに乗って、みっこが冬の陽だまりの中に舞う。
彼女の脚先が、宙空に綺麗な軌跡を描いてゆく。
ふんわりと広がった髪が逆光を受けて、金色の糸のように、キラキラと輝く。
冬の柔らかな日射しの中で、みっこはいつまでもまわり続けた。
END
3rd jul. 2011